め組 の 辰五郎。 時代劇『暴れん坊将軍』で吉宗がめ組の辰五郎宅に居候になった経緯は何です...

新門辰五郎(しんもんたつごろう)とは

め組 の 辰五郎

幕末の侠客・新門辰五郎が没 今日は何の日 明治8年 1875 9月19日 明治8年 1875 9月19日、新門辰五郎が没しました。 幕末の火消し、侠客で、徳川慶喜とも親交があり、大坂城から家康以来の金扇の馬標を江戸に持って帰ったことでも知られます。 辰五郎は寛政12年 1800、異説あり 、江戸下谷に煙管職人 飾職人とも ・中村金八の子に生まれました。 初名は金太郎。 幼い頃、火事で父が焼死。 一説に弟子の火の不始末が原因であったため、父は「世間に申し訳が立たない」と火の中に飛び込み自害したのだともいいます。 以来、火事が親の仇となった辰五郎は、16歳の時に浅草十番組「を組」の頭・町田仁右衛門の弟子となりました。 そして見込まれて、仁右衛門の亡き息子の名・辰五郎を称します。 火消しや喧嘩の仲裁などで頭角を現わした辰五郎は、文政7年 1824 、25歳の時に仁右衛門の娘・錦を娶って養子縁組し、「を組」の頭を継承しました。 また、町田の家が浅草寺僧坊伝法院新門の門番であったことから、辰五郎は新門辰五郎と呼ばれるようになり、浅草・上野界隈を縄張に、2000人ともいわれる子分を抱える侠客としての顔を持つようになります。 そして「粋で、腕っ節が強くて、気風がいい」と、江戸っ子たちから慕われる存在となっていきます。 弘化2年 1845 、火事の現場で「を組」の男たちが大名火消と大喧嘩を起こします。 相手方18人を死傷させたことで、辰五郎は責任を問われ、罪人として石川島の人足寄場に送られました。 しかし、辰五郎は瞬く間に人足をまとめ上げ、大火の火が寄場に迫った折には、人足たちを指揮して消火に活躍。 荒くれ男たちをまとめ上げる胆力があったのでしょう。 この働きが認められて赦免されます。 その後、上野大慈院別当覚王院義観の仲介で、辰五郎は一橋慶喜と知り合い、愛娘のお芳が慶喜の妾となりました。 元治元年 1864 、慶喜は禁裏御守衛総督に任命されて上洛すると、辰五郎を呼び寄せ、子分200人を引き連れた辰五郎は、京都二条城の警備などを任せられています。 慶応4年 1868 1月、前年に大政奉還を行なった前将軍の慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れると、将兵を置き去りにして、大坂城から抜け出し、江戸に逃げ帰ります。 この時、慶喜は城内に家康以来の金扇の馬標を置いたままでした。 これに気づいた辰五郎は、大混乱の中、馬標を城内から運び出すと、子分たちを動員して、新政府軍がたむろする東海道を突っ走り、無事に馬標を江戸城に届けています。 この時、「公方様が権現様の馬標を置き去りするたあ、あんまりじゃあございませんか」などと慶喜を叱ったりはしなかったのでしょうか。 侠客の辰五郎が、慶喜の出所進退をどう見ていたのか、気になるところです。 その後、慶喜が上野寛永寺に謹慎すると辰五郎は寺の警備を行ない、また勝海舟に頼まれて、もし西郷吉之助との江戸無血開城の談判が決裂したら、市民を避難させた上で江戸中に火を放つ手筈であったといいます。 明治に入り、辰五郎は慶喜に請われて旧幕臣たちが移住した静岡で暮らしますが、知己を得た清水の次郎長に慶喜の警固を託すと、東京に戻りました。 明治8年 1875 、最後まで幕府への義理を果たした辰五郎は、浅草の自宅で生涯を閉じます。 享年76。

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ふき(お芳)慶喜の関係は妾?妻?新門辰五郎娘お芳

め組 の 辰五郎

没年:明治8. 19 1875 生年:寛政4 1792 維新期の侠客。 江戸町火消しの元締。 本名町田辰五郎。 錺職人の子として下谷に生まれ,上野輪王寺の寺僧町田仁右衛門のになる。 鳶人足から人足頭,町火消十番組の頭になり,浅草寺の門番も勤める。 江戸の火消しには幕府の定火消し,大名火消し,裕福な町衆が金を出しあって雇う町火消しの別があり,町火消しは下位に立たされていたが,辰五郎は浅草の香具師,大道芸人などから入る金を背景に勇み肌の男たちを十番組に配し,柳川藩の大名火消し相手の喧嘩で18名を死傷させて勇名をはせ,この罪で江戸所払になる。 夜な夜な妻妾のところに戻るのが露見して捕まり,拷問されたが屈せず佃島人足寄場に送られる。 弘化3 1846 年の本郷丸山火事で佃島に火が入ると,囚人をらと指揮して消火に貢献,赦免される。 娘がの妾になっている縁で慶応年間 1865~68 ,子分300人を連れて将軍警備で京都に行く。 京都では河原町,大坂では堂島に居を構え,妾も置いて,将軍お抱えの江戸の親分として羽振りをきかせた。 の戦に敗れて開陽丸で江戸に敗走する慶喜から,大坂城に忘れてきた馬印の大金扇を取ってくることを命じられ,これを持って子分と共に陸路を江戸に着いた。 慶喜が水戸に謹慎になった際,2万両の甲州金を輸送し,徳川家の駿府 静岡県 移住にも付き従い,最後まで佐幕派の義理を守った。 浅草の自宅で。 勝海舟『氷川清話』,白柳秀湖『親分子分・侠客編』 平岡正明 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説.

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新門辰五郎 辰五郎が新門を名乗るようになったのは実はこの浅草に由来する

め組 の 辰五郎

しかし、地区ごとの町火消はその前にもありましたが、うまく機能しません。 そこで、地区割りの変更をした上で、新たに組織。 最初は47地区に区分けされました。 このとき幕府側で設置にあたったのは、南町奉行の 大岡忠相(おおおかただすけ、越前守)でした。 後述する消化方法がとられたせいもあり、主にとび職の人たちが所属していました。 当時は、火を消すというよりも「これ以上延焼させない」といったほうがいい消火活動をしていました。 現在の消火は、火が出ているところに水をかけるのが主ですが、江戸時代は「 破壊消防」と呼ばれる方法で、火元の建物から風下の方向に隣接している家などを壊していくというやり方です。 建物になれているとび職が力を発揮できたわけです。 纏振りが屋根に上がって振ります。 武士が戦のときに掲げる「馬印」や「旗印」が火事の現場で使われるようになり変化したもので、大岡が志気を揚げるため使用を許しました。 後に組ごとに凝ったデザインとなっていきました。 また、建物を壊すため鳶口(とびぐち)、普段は犯罪の容疑者を捕まえるためにも使った刺又(さすまた)も使用していました。 ちなみに、 刺又の形は、消防署を表す地図の記号となっています。 その他に、龍吐水(りゅうどすい)という放水ポンプもありましたが、水を消すほどの威力はなく、纏振りに水をかける程度だったと言われています。 別名「猫頭巾」と言われ、煙を吸わないような作りとなっていました。 そして普通の半纏に比べると分厚くて丈も長めの「刺子半纏(さしこばんてん)」を着て手袋をしていました。 当然、防炎加工をした服はありませんでしたので、衣装にたっぷりと水を含ませて、活動していました。 江戸の三大大火 (明暦の大火 出典:) 火事が多かった江戸ですが、 明暦の大火(振袖火事、明暦3年 1657)、 明和の大火(明和9年 1772)、 文化の大火(文化3年 1806)を「 江戸三大大火」と呼んでいます。 特に明暦の大火は、わが国史上最大の被害をもたらした他、世界三大火災(他64年のローマ大火、1666年のロンドン大火)の一つにも数えられています。 火事と喧嘩 火事が起こると、後日褒美をもらうために消火に当たった組がわかるような目印を立てておくのですが、「どの組が立てるべきなのか」を巡る功名争いの原因となりました。 そのトラブルが原因で火事現場で喧嘩が始まるわけです。 幕府はたびたび禁じましたが、なくなることはありませんでした。 芝神明宮(現在は、港区芝大門の芝大神宮)境内(め組の管轄)で開催中だった江戸相撲の春場所の木戸銭(入場料)を巡る争いが発端です。 め組の鳶職・ 辰五郎は木戸御免(無料で見てよい人)でしたが、その知人で木戸銭が必要な富士松もただで見ようとしたことから、入り口で口論となりました。 そこへ力士の九竜山が通りかかって、木戸番に味方したので、辰五郎らは一旦引き下がりました。 このあと、辰五郎たちは、芝居見物に向かいました。 ところが九竜山も同じ芝居小屋に来てしまいます。 九竜山は、さっきの件で面白くない辰五郎や他の見物客達によって満座の中で野次り倒され恥をかかされてしまいました。 我慢できなくなった九竜山は辰五郎を投げ、芝居を台無しにしてしまいます。 相撲の年寄や火消のかしらが仲裁に入り一旦騒ぎは収まりかけたものの、九竜山と同部屋の力士が仕返しを焚きつけ力士を集める一方、火消の人たちも火事場に行く格好で駆けつけたり、火の見やぐらで半鐘を鳴らして動員をかける有様です。 火消は管轄の江戸町奉行、相撲側は寺社奉行にそれぞれ訴えたものの仲裁できる状況ではなく、最終的に与力や同心が乱闘に割って入らざるを得ず、合計36人が捕らえられてしまいます。 騒ぎでけが人は出たものの死者はなく、結局、辰五郎は百叩きの上江戸払い(追放)、早鐘を鳴らした男などが江戸追放。 その他の鳶は説諭と罰金と比較的軽く済みました。 力士側では九竜山のみ江戸払いを命ぜられ、他にお咎めはありませんでした。 ちなみに、このとき鳴らされた半鐘は遠島(島流し)となりましたが、明治時代になってから芝大神宮に戻されました。 別人の辰五郎 (新門辰五郎 出典:) 火消「を組」の 新門辰五郎とめ組の辰五郎は別人です。 新門辰五郎のほうは、文化2年当時はまだ子供でした。 新門辰五郎は、浅草で有名になったほか最後の将軍・徳川慶喜と関係が深かったこともあり、ドラマなどに取り上げられる人物です。 主なかかわりを見ていくと、娘が慶喜の身の回りの世話(いわゆる妾)をしました。 征夷大将軍になる前の慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督(京都にある、孝明天皇の住まいである御所の警備責任者)に任じられると、京都に呼ばれたため子分と上洛(京の都に行くこと)して徳川幕府の物である二条城の警護にあたります。 そして鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜が会津藩主松平容保(かたもり)らと江戸に逃亡すると、慶喜が大坂城においてきた家康以来の金扇の大馬印を江戸まで届けたり、水戸や駿府(現在の静岡市)で謹慎する慶喜の警備に当たるなどしました。 まとめ.

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