アース ウィンド ファイヤー。 アース・ウィンド・アンド・ファイアー

アース・ウィンド・アンド・ファイアー

アース ウィンド ファイヤー

日本でも数多くのヒット曲、とりわけ不朽のディスコ・クラシックスで知られる大型セルフ・コンテインド・グループ、。 現在は中心人物もツアー活動から身を引き、また、レコーディングからもしばらく遠ざかっているが、その人気は衰える事を知らない。 モーリスは10代の頃からドラムを始め、ミュージシャンとなる事を決意。 16歳の時に一家でシカゴに移り住んだ。 また、 の大ヒットで知られるチェスの人気ジャズ・グループ、ラムゼイ・ルイス・トリオのメンバーにも迎え入れられる。 彼の当初のグループに対する音楽的コンセプトは従来のソウルにジャズの要素を加え、さらにロックの音楽をうまく融合するという、今まで誰も成功させたことのないような当時としてはかなり斬新なものだった。 その背景には、当時の音楽シーンというものが大きく反映されていたことは疑う余地はない。 がシーンを席巻し、JBが文字通りのスーパー・スターの座に君臨、ジャズ界ではマイルスが絶好調の活躍を見せ、さらにロック界ではブラス・ロックなどと呼ばれるサウンドが台頭してきた、そんな活気溢れる時代。 そうした中で、ジャズ、ソウル、ロックなどをフュージョンさせるグループを作ろうという構想がモーリスに芽生えたわけである。 1970年、彼等はワーナー・ブラザーズと契約を交わし、アルバムでデビューを飾る。 そこでモーリスはグループのメンバーを大幅にチェンジ、レコード会社もCBSに移籍して再スタートを切る。 シングルでは「Evil」と「Keep Your Head To The Sky」がTop30内にランク・イン。 シングルでは「Mighty Mighty」「Kalimba Story」が共にTop10に入るヒットとなる。 1を獲得、さらにプラチナム・ディスク(100万枚以上のセールス)にも輝く大ヒットとなった。 1となり、アースは黒人セルフ・コンテインド・グループの中でも実力、人気共に最高峰にのし上がる事となった。 1を獲得、アルバムも大ヒットを記録する。 日本でも「Getaway」や「Fantasy 宇宙のファンファジー)」等が大ヒットとなり、彼等の人気は頂点を極める。 また、この頃からモーリスは自らのプロダクションを設立、、等をプロデュースして成功を収めていった。 この頃のメンバーにはモーリスの弟ヴァーティン、ギターにはがそれぞれ加わり、また持ち前のホー・セクションにもさらに磨きがかかり、これは彼等の大きな魅力ともなっていった。 ここからのシングル「September」を引っ提げ翌年の3月には初来日も果し、全国の音楽ファンを熱狂させた。 商業的には、それまでと比べるとやや見劣りするものの、その人気は不動のものだった。 モーリスの脱退説も噂されるが、アフリカン・ミュージックをルーツとしたリズム・セクションに、モーリスのソウルフルなヴォーカルとフィリップの美しいファルセットが奏でるアースならではの音世界は私達にとっては、永遠に不滅だ。

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アース・ウインド&ファイアー、もっとも人気のある曲は?

アース ウィンド ファイヤー

Arranged By — tracks: A1 to A3, B1 to B3 , tracks: B4, B5 , tracks: A4• Bass Trombone —• Cello — , , ,• Drums, Percussion — ,• Engineer, Remix —• Guitar —• Guitar, Percussion —• Harp —• Percussion —• Photography By —• Photography By [Assisted By] —• Piano —• Piano, Organ, Synthesizer [Moog] —• Producer —• Producer, Vocals, Kalimba, Drums, Timbales —• Saxophone —• Saxophone, Percussion —• Trombone — , ,• Tuba —• Vocals, Bass, Percussion —• Vocals, Congas, Percussion — Released with obi and insert.

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アース・アンド・ファイアー

アース ウィンド ファイヤー

「僕は自分の人生のことを書いていたんだ」。 モーリス・ホワイトはかつて、ジャーナリストの故ティモシー・ホワイトにこう語った。 世界で最も人気のあるブラック・ロック・バンドだったと言って間違いないだろう。 ゴールド&プラチナ・アルバムが12枚近く、『シャイニング・スター』『シング・ア・ソング』『アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン』といったチャートトップ10に入ったシングルも10曲近くある。 徐々に洗練されていった彼らのスタイル、ディスコ、ジャズ・フュージョン、アフリカーナ、ソフト・ポップ、ストーンド・ソウルのミックスに、批評家はうんざりしていたかもしれない。 だが、平和や崇高な精神、愛といったメッセージ、そして素晴らしい衣装、扇情的なライブによって、時代を最も象徴するバンドの1つとなったのである。 そして、ホワイトは常にその中心にいた。 ゴスペル歌手のフィリップ・ベイリーとリードボーカルを務めたときも、または伝説のプロデューサー、チャールズ・ステップニー(残念ながら1976年に死去)とスタジオ作業をしていたときも。 ホワイトは、エジプトのピラミッドや聖書のシンボルを複雑にデザインしたジャケットカバーを監修し、歌詞のなかには自分の信条を反映させた。 2016年2月3日(水)の夜、モーリス・ホワイトがロサンゼルスで逝去した。 1970年頃、劇作家・詩人として、またラディカルな発言で注目されたメルヴィン・ヴァン・ピーブルズは、自身の低予算映画『スウィート・スウィートバック』が完成目前だった。 まだサウンドトラック作業が残っており、ピーブルズのアシスタントは当時、シカゴからロサンゼルスに出てきたばかりの若きモーリス・ホワイトと交際していた。 「彼らはハリウッド大通りで餓死寸前だった」と、ピーブルズはワックス・ポエティックス誌に明かしたが、彼らの協力を得て、自ら歌い叫ぶほどのギラギラしたファンクとジャズのループを完成させた。 アルバムも映画も、予想外の大ヒットを記録。 これは『デヴォーション』に最も顕著に現れている。 1974年のアルバム『オープン・アワ・アイズ』に収録されている、たいしてヒットしなかったがファンの熱狂的支持を集める曲だ。 キラキラ輝くようなコード、フュージョンなキー、甘美でしなやかなベースラインにどっぷり浸ったこの曲の誘惑は、繊細でありながら揺るぎない。 歌詞のなかでは堂々と「私たちのミッションはメロディを奏でること/声を上げて、甘いハーモニーを歌おう」と、その考えを示している。 最も記憶に残るバージョンは、1975年のライブアルバム『灼熱の狂宴』に収録されている。 アトランタのオムニシアターで行われたライブはまるで、ゴスペル・ファンクのリバイバルだった。

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