将棋 2ch 名人。 将棋名人戦の日程決まる 6月10日開幕、対局のみ実施:朝日新聞デジタル

羽生善治

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室田伊緒の応援スレッドについてまとめてみました。 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 2ch. 井山ってまだ若くて女の本当の正体・恐ろしさを知らないね。 完全に伊緒に騙されたな。 こんな女というが、むしろ無能な人間の方が嫁には向いてる。 例えば、室田が里見並みに棋士としての力があったら、 将棋に打ち込む時間が多くて井山を支える時間は少なくなるだろう。 井山は経営者でもないし、金や有力なコネを持ってる家と繋がることにメリットがあるわけでもない。 顔の好みは人それぞれなんだから外野がとやかく言う話じゃない。 井山負けただろ?井山は本当はあまり強くないんじゃね? 伊緒もひと月家にいないなんてもう主婦じゃないね。 それじゃ別に居なくても同じようなもんだろ。 家帰ってもご飯つくる奴いないんだぜ? 棋士夫婦なんて本当にまともな生活していないね。 まともな人間じゃないね。 現に日本一値打ちの高い男を選んでるだろ? 人を値踏みする奴は自分も必ず値踏みされます。 30歳位になってオバサンになった時に、ボロクソに虐げられるはずです。

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「名人に香車を引いて勝つ」「たどり来て未だ山麓」「新手一生」升田幸三元名人の名言と戦後の将棋史(松本博文)

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第7期名人戦の様子 棋戦の分類 タイトル戦 開催概要 開催時期 予選():6月 - 翌年3月 タイトル戦:4月 - 7月 初回開催 1935年~1937年(第1期名人決定大棋戦は2年間) 持ち時間 予選():6時間 タイトル戦:9時間(2日制) 番勝負 七番勝負 主催 公式サイト 記録 現名人 (第77期) (十四世名人) (十五世名人) (十六世名人) (十七世名人資格) (十八世名人資格) (十九世名人資格) 最多優勝 大山康晴(18期) 最長連覇 大山康晴(13連覇) 名人戦(めいじんせん)は、と共催のので、(・名人戦・・・・・・)のひとつ。 の近代化にあたり、以来の終身位名人制を廃し、短期実力制によって名人を選ぶべく、に第1期が開始された(第1期リーグ戦はからにかけての二年間)。 タイトル戦の中で一番長い歴史を有し、の勝者は のタイトル称号を得る。 名人位は竜王位とともにの頂点とされている。 概要 [ ] 名人と挑戦者とで行われる対局()のこと。 名人戦七番勝負の勝者には、で最も格式と歴史のある(として江戸時代初期の(年間)から、実力制タイトルとしてはから続く)「」のタイトル称号が与えられ、次期の七番勝負終了まで、そのタイトル保持者となる。 ととが共催(2007年度から)し、から協賛を受けている(2005年度から)。 江戸時代以来、近代までは制(ただし血縁絶対ではない、家元制・推挙制)であった。 、による「第一回」開始にあたり、読売新聞社が行ったアンケートに、時の名人が「古来、名人の位は一生涯のものだが、私は時勢に鑑み適当な時期に退隠したいと思う」と回答。 なお、この頃の関根は「名人」ではなく「九段制」を考えていた。 その後、顧問の中島富治の発案を受け、(昭和9年)、学芸部長のが囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し 、会長のが1935年3月に「昭和12年(1937年)に300年続いた一世名人を廃する」と発表。 同年、名人戦(当初は八段9名のリーグ戦)が開始。 2年にわたる「第1期名人決定大棋戦」の結果、1937年の12月6日にがに勝ち、翌年に予定されていた決勝六番勝負をへることはなく、初代の実力制名人に決定。 1938年2月11日 、十三世名人のは1935年に提出した声明書に基づき名人位を返上し、木村が実力制名人位についた。 これにより以来続いた一世名人制が廃止され、短期実力制名人位制度が開始された。 なお、囲碁は名人戦ではなく戦とされ1939年に開始した。 方式 [ ] 名人戦の予選はと呼ばれ、A級順位戦の優勝者が挑戦者となる。 名人と挑戦者が名人戦七番勝負を戦う。 A級順位戦 [ ] 詳しくはの項を参照のこと。 は各6時間。 名人戦七番勝負 [ ] 名人とA級順位戦の優勝者が七番勝負を戦う。 七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。 第66期(2008年)以降は第1局を東京都文京区ので行い、第2局~第5局は全国の自治体からの公募により開催地が決定されるのが恒例となっている。 持ち時間は各9時間(将棋界で最長)で、2日制で実施される。 1日目の終わりにはを行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。 なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは、2018年現在タイトル戦の中では名人戦だけ(1日制のタイトル戦ではとがある)。 賞金 [ ] 名人戦の賞金額は通常非公開だが、過去に『』誌上でその一端が公開されたことがある。 同記事によれば、1991年当時の名人及び挑戦者の賞金額は以下のとおり。 対局料 - 名人は1,050万円、挑戦者は450万円。 賞金 - 勝者(名人)は1,200万円、敗者は300万円。 名人手当 - 月に約100万円(名人は順位戦の対局がない(=対局料が発生しない)代わりに手当が上乗せされる)。 従って名人位を防衛すると合計で約3,500万円ほどとなり、当時の竜王戦の賞金とほぼ並ぶ計算となる。 変遷 [ ] 当初は1期2年であり、2年間かけて挑戦者を決め、偶数年に番勝負を開催していた。 ただし、1938年、1944年、1946年は挑戦者不在などの理由により番勝負が開催されず、このうち1938年と1946年は、前年である奇数年のうちに名人が決まった。 各期ごとに試行錯誤が重ねられ、挑戦者決定リーグの開催方式が変更された。 1946年に順位戦が始まったことで、1947年以降は1期1年となり、挑戦者決定方法も固定された。 第1期名人戦 [ ] 第1期(番勝負:1938年(開催されず)) 最初の実力制名人は、当時の最高段位であった八段の全棋士が名人候補者決定リーグに参加し、リーグを勝ち抜いた名人候補者2名による六番勝負(3勝3敗の場合は候補者決定リーグ1位の者が名人)で争うことになった。 当初は、1935年から2年間のリーグを行い、1937年に番勝負を開催する予定だったが、神田事件(後述)によってリーグが半年間中断され、番勝負は1938年に変更された。 名人候補者決定リーグは、八段全棋士が総当たりで2局ずつを指す特別リーグ戦の結果と、通常の棋戦における対八段・七段戦(普通戦)の結果をそれぞれ点数に換算して合算することで順位を決した(普通戦では、勝敗だけでなく、相手の段位や手合によって点数が定められた)。 ただし、候補者決定リーグにおける1位と2位の点差が8点を越える大差となった場合には、2位の者の候補者資格を認めず、番勝負は行わずに1位の者が名人になることとしていた。 また、第1期のリーグによる点数が40点を下回った棋士は、次期(第2期)の挑戦者決定リーグ参加権が停止されることとなっていた(第3期から復帰が可能)。 名人候補者決定リーグの当初の参加者(八段)は、、、、、、、(八段昇段日順)の7名だった。 しかし、の八段昇段(すなわちリーグ参加権)の是非を巡って紛糾し、神田の昇段を主張する棋士らが一時連盟から脱退する騒ぎとなった( )。 結果的に連盟は神田の八段昇段を追認して決着。 神田と の新八段2名が加わり、9名でリーグを行うこととなった。 リーグ戦の結果、1937年12月5日から 12月6日の最終局で木村が花田に勝利したため、リーグ戦の成績は木村と花田が13勝2敗で並んだが、点数が1位の木村が103. 7点、2位の花田が95. 6となり、8. 1点差という大差が付いたため、規定により番勝負は実施されず、木村が名人につくことなった。 翌1938年2月11日に、木村の名人就位式が実施された。 また、木見と大崎が規定の40点を下回り、第2期の挑戦者決定リーグ参加資格がなくなった(なお、大崎は病気による途中棄権であり、第2期リーグの途中で死去したが 、木見は規定により第3期からリーグに復帰した)。 順位戦創設以前(第2期から第5期まで) [ ] 第2期(番勝負:1940年) 第2期からは、現在でもお馴染みの挑戦者決定リーグで選ばれた挑戦者が七番勝負で名人に挑戦する形式となる。 挑戦者決定リーグは、前期のリーグで40点以上を獲得した名人以外の八段6名に加えて、新八段1名、八段格として特例で参加が認められた(名人僭称問題によってそれまで連盟に所属していなかった)、七段全員による予選(総当たり2局ずつ)を勝ち抜いた1名の9名に参加資格が与えられた。 挑戦者決定リーグは、第1期にあった普通戦が廃止され、総当たりのリーグ戦を2回(第1次・第2次)行い、その合計の勝敗で挑戦者を決した。 なお、第1次リーグで1勝以下の成績の者(花田が該当)は第2次リーグに参加できず、失格となった。 番勝負は持ち時間各15時間の3日制にて実施された。 土居が13勝0敗で名人挑戦を決めたものの、番勝負で木村に敗退した。 なお、特例として参加した阪田は7勝8敗であった。 第3期(番勝負:1942年) 挑戦者決定リーグは、八段の全棋士10名に、五段 - 七段の予選を通過した2名を加え、12名で行われた。 第3期は、2段階のリーグ戦によって挑戦者が決められることになった。 まず、12名を4名ずつ3組に分けてリーグ戦を行った。 各組の1位3名(土居・神田・渡辺)に加え、各組2位4名による敗者復活リーグを勝ち抜いた1名(塚田)の計4名により、決勝リーグを行った。 決勝リーグを制した神田が挑戦者となったが、番勝負で木村に破れた。 第4期(番勝負:1944年(開催されず)) 挑戦者決定戦は、八段の全棋士12名に加え、五段 - 七段の予選を通過した4名の合計16名で行われた。 これまでのリーグ戦方式を改め、半年ごと(2年間なので都合4回)に予備資格者決定トーナメントを行うことになった。 各トーナメントの勝者が予備資格者として名人(木村義雄)と半香落ち(香落ちと平手を交互に指す)ので予備手合三番勝負を戦い、これに勝ち越せば名人挑戦者として改めて名人戦七番勝負に進むことができる。 しかし、予備手合は4回とも木村の勝ちとなり、名人挑戦資格者が出ず、七番勝負を行わずに木村の防衛となった。 1943年前期 木村義雄 2-0 萩原淳• 1943年後期 木村義雄 2-1(1千日手) 大野源一• 1944年前期 木村義雄 2-0 花田長太郎• 1944年後期 木村義雄 2-0 坂口允彦 第5期(番勝負:1946年(開催されず)) 戦時下につき、トーナメントが廃止され、近年の成績により予備資格者の7名が選出された。 この7名が順に木村と予備手合三番勝負を行い、勝ち越した者が正式な挑戦者として名人戦七番勝負に進出することとなった。 しかし、戦争激化により、予備手合が中止され、特例として木村義雄の名人防衛の決定がなされた。 順位戦創設以降(第6期から) [ ] 第6期(1947年) 前年からが開始され、A級順位戦の優勝者が名人挑戦資格を得るようになった。 この年のA級順位戦は八段棋士14名によるリーグ戦(持ち時間は各7時間)で、順位が決定していなかったため、同率首位となった塚田正夫・大野源一・萩原淳の3者によるプレーオフが行われ、塚田が挑戦資格を得た。 この期より番勝負のシステムが、それまでの3日制から「持ち時間各8時間の1日制」に変更された(は行われない)。 第7期(1948年) - 第9期(1950年) 順位戦A級の上位3名と、B級の優勝者による4名がパラマス式トーナメントを行い(A級3位とB級優勝者が対局し、勝者がA級2位と、その勝者がA級1位と対局する)、トーナメント優勝者が名人挑戦資格を得る。 第7期では、第2期順位戦でB級七段だったがパラマス式トーナメントを勝ち抜いて挑戦資格を得ており、名人戦唯一の七段の挑戦者となっている。 1949年の順位戦実行中に、日本将棋連盟と毎日新聞との交渉が決裂し、第9期からの名人戦の主催者は朝日新聞となった。 なお第9期から、番勝負のシステムが「持ち時間各10時間の2日制」に再度変更されている。 第10期(1951年) - 第26期(1967年) A級順位戦の優勝者が挑戦資格を得るように改められた。 第27期(1968年) - 持ち時間を「順位戦は各6時間、番勝負は各9時間」に短縮。 以後現在までほぼ同じ形式を踏襲している。 永世名人 [ ] 詳細は「」を参照 名人位を 通算5期以上獲得した棋士は、原則として後に、である 永世名人を名乗ることができる。 これは、江戸時代から続く終世名人制を引き継ぐためであり、最初の永世名人であるは、十三世名人の次であるから十四世名人を名乗った。 永世名人の資格は、1949年に、名人戦主催者が翌年から朝日新聞に変更となったのを機に制定された。 当時の規約は、名人5期以上の棋士が失冠した際に、連盟がその棋士の人格等を審査し、永世名人に相応しい人物であれば永世名人の称号を贈るというものであった。 規約制定以前の1945年に木村義雄は既に規定の名人5期を達成していたため、当然この資格を獲得し、1952年に名人を失冠すると永世名人を襲位した。 なお、「木村の名人獲得期数5期は1949年に達成したものであり、戦前の獲得期数は実際は4期である」とか「永世名人の規約ができたのは1952年である」などといった誤解がある。 しかし、木村の名人獲得期数と規約制定年と襲位との関係を理解しないことから起きた誤りである。 この規定による永世名人の資格獲得者は、(十四世名人)、(十五世名人)、(十六世名人)、(十七世名人)、(十八世名人)、(十九世名人)の6名である。 このうち、谷川、森内、羽生は現役なので未だ襲位していない。 木村は1952年の名人陥落後に引退して十四世名人を名乗った。 大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら「十五世名人」を名乗ることを許されていた。 2007年11月、中原も名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。 2017年現在、規定通り引退後に永世名人を名乗ったのは木村のみである。 名人戦と段位 [ ] 上述の通り、第10期以降は名人戦挑戦のために、順位戦A級在位という前提を要する関係上、名人戦挑戦者の段位は必然的に八段以上となる。 八段の挑戦者が名人位を獲得した場合、段位は九段となる。 1973年11月3日に当規定が施行されて以降、名人位獲得に伴い九段に昇段した棋士は、・・・・・の6名である。 尚、谷川と丸山は、五段から八段までの全ての段位を順位戦の昇級に伴い昇段したので、名人位獲得をA級から名人への昇級と考えると五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したことになる。 歴代七番勝負・A級順位戦 [ ]• 名人戦七番勝負について• 勝敗は名人から見た勝敗。 千は、持は。 " 赤色"は七番勝負の勝者。 " 濃い赤色"は七番勝負の勝者・永世位獲得。 順位戦A級リーグについて• 順位は当期の成績ではなく前期の成績によって決定したリーグ順位。 着色は名人獲得経験者。 1位木村と2位花田が大差となったため、1938年の番勝負は行わずに1937年に名人決定。 前期リーグで規定の点数を満たさなかった八段は出場資格なし。 予選を通過した七段1名が出場。 名人挑戦権獲得者が現れず番勝負なしで木村の名人防衛。 5 1945 木村義雄 - - 木村雄 花田 金子 萩原 坂口 塚田正 大野源 1946 近年の成績で選抜された7名が予備資格者となったが、予備手合が戦争で中止となり、番勝負は開催されなかった。 特例として木村の防衛扱い。 通算成績 [ ]• 記載は名人獲得・挑戦者またはA級在籍10期以上に限る。 太字は永世位獲得者または最多記録。 A級在籍は名人在位も含む。 は休場・戦争中止を除いた年数。 名人戦七番勝負(七番勝負も同様)の模様は、2015年まで(2010年までは)で「将棋名人戦」という番組名で放送されていた。 各局の1日目は17:00-18:00に、2日目は16:00-18:00に生放送されることが多い。 結果はダイジェストとして2日目の夜遅く(翌日の0時台-1時台)に10分程度放送される。 司会をの男性が、解説を棋士が、が解説の聞き手を務めるという3人体制が長く続いているが、2011年は女流棋士が出演せず、第1局で磯辺真季(将棋普及指導員 )が聞き手を務めた後、第2局からは男性アナウンサーが聞き手を兼ねる2人体制となった。 2010年度からは、番組の始めと終わりに初めてテーマ音楽が流されるようになった。 付きのに模したである。 「将棋竜王戦」、囲碁のタイトル戦番組でも同じ曲が使用されている。 また、この名人戦の挑戦権をかけた「A級順位戦」最終戦の実況中継も 「」と題して、2012年までBSプレミアムで時間を区切っての長時間実況中継が行われていたが、2013年は放送チャンネルをと、に移譲(囲碁・将棋チャンネル提供)して行われた。 ネット配信 [ ] (2012年 - )・(2017年 - )による七番勝負の完全生中継が行われている。 名人戦の主催者 [ ] 当初の主催は及びで、のち二社が合併して主催だったが、第9期(1950年)から第35期(1976年)はの主催に変わった。 第36期(1977年)から毎日新聞社の主催に復し、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。 も参照。 1950年 [ ] この年、名人戦の契約が毎日新聞から朝日新聞に移っている(正確には、1949年の順位戦の中断中の、毎日新聞社と日本将棋連盟との交渉が決裂し、その以降の順位戦、および、翌1950年に開催される名人戦の主催者が朝日新聞になった )。 名人戦を失った毎日はを創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(新聞社と共催)として現在に至っている。 この節のが望まれています。 参考資料 『名人に香車を引いた男』(中央公論社、2003年、) 1976年 [ ] この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。 大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦であるの契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。 朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。 連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。 その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。 直後に行われた臨時ので、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。 反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。 名人戦を失った朝日新聞は、1977年から「」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は、2006年で終了)を主催している。 なお1991年11月ごろ、日本将棋連盟の理事会で、名人戦を朝日新聞に移そうという動きが表面化していたという記録があるが、この時点では実現しなかった。 1991年8月、日本将棋連盟渉外担当理事のが、朝日新聞社に名人戦主催に復帰する考えがあるか打診した。 日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、、の3名のみで、のこり5名は反対だった。 その後、91年9月、92年3月、92年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった。 参考資料 「」1976年12月号 2006年 [ ] 2006年3月、理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。 事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。 問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。 その後、会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。 また米長会長は、紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。 また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判した。 2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。 通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。 7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。 棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。 (当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。 8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。 結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。 9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。 12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。 名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。 また、朝日新聞社が主催しているは朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「」に改められた。 毎日新聞社などが主催する(契約金は年7800万円)は継続して開催される。 尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人をだすこととなった。 参考資料 (現在はリンク切れ、) 参考文献 『新潮45』2006年7月号(通巻291号)、「棋界激震! 名人戦争奪バトルの禁じ手」() 『』2007年1月号、「名人戦の真実」 脚注 [ ]• 『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P. 『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P. 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』()P. 関根金次郎声明・『将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ出版刊行)P. 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P. 日本将棋連盟・2015年8月21日閲覧• 萩原は、神田を支持した花田・金子が脱退した際に欠員補充として昇段した。 なお、神田については脱退時に八段昇段したとする主張が連盟によって追認されているため、萩原の昇段日は神田よりも後である。 週刊将棋編「名局紀行」毎日コミュニケーションズ P. 101• 『将棋名人戦 ~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(編集部編、、2014年)p. 『将棋名人戦』p. 将棋世界「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄vs倉島竹二郎」1985年7月。 『将棋名人戦』p. 『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P. 161• 『将棋名人戦』p. 将棋世界2018年3月号。 八段格として特例による参加。 なお、現役当時の表記は阪田ではなく坂田。 予選ではなく近年の好成績により七段ながらリーグ参加権が認められた。 五番勝負• により途中休場。 三浦の地位保全のため、翌76期は三浦を含む11名で行われた。 磯辺真季は、1995年1月 - 3月ので佐藤康光のアシスタントを務めている。 2011年名人戦の司会兼聞き手のアナウンサーは、第2局から局順に、・・・・・長野亮( 2011年6月23日閲覧)。 (囲碁・将棋チャンネル)• 『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P. 159-160• 編『将棋ファン読本』(毎日コミュニケーションズ)P. 15 「不死鳥・大山の将棋人生」• 『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P. 『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P. 『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P. 70 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•

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日記: 2ch将棋アンテナ

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【前記事】 年末年始、テレビでは特番が放映されます。 そうした中で、では、12月30日に「大山、升田の知られざるエピソード」、1月2日に「空前絶後、大山、升田の香落戦」が配信されるそうです。 石田九段と桐谷七段が昭和の巨匠の思い出話を語り、新進気鋭の佐々木勇気七段が升田-大山の歴史的な対戦を語る。 これは見逃せません。 オールドファンであれば、木村義雄14世名人(1905-86)、升田幸三九段(1918-91)、大山康晴15世名人(1923-92)による戦後の将棋史は既にご存知のことと思います。 本稿では新しいファンのためその概略と、升田九段の多くの名言をご紹介したいと思います。 升田少年は広島県三良坂町(現三次市)で生まれ育ちました。 そして将棋指しをこころざし、母の反対を振り切っての実家を飛び出します。 その際に、物差しの裏に「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書き置きを残しました。 升田少年はまだ将棋界のことをよく知らなかった。 広島市内で一番強い将棋指しに勝ったら、さらなる飛躍を求めて大阪に行くという意味だったようです。 ただし少年の夢であった、日本一の将棋指しになるという決意がよく示されていることに違いはないでしょう。 この言葉は後年、 「名人に香車を引いて勝つ」 と表されるようになります。 これはまた、夢のような話です。 古来、名人が下位者を相手に香車を引く(香落のハンディで指す)ことは多くありました。 しかし香車を引かれるようなことは、制度上ありえませんでした。 升田幸三少年は知遇を得た人の紹介によって、大阪の木見金治郎八段(後に九段)の門下となります。 升田少年は内弟子として木見八段の家に住み込み、将棋以外の雑多な仕事をこなしました。 そこではずいぶんと苦労をしたそうです。 「一人前になるには五十年はかかるんだ」 升田少年は自らにそう言い聞かせながら、修行に励みました。 【参考記事】 升田少年は才能があり、また努力も怠りませんでした。 順調に実力を伸ばし、やがて木村義雄名人の後継候補の筆頭にも目されるほどに強くなります。 しかし升田青年にとって不幸だったのは、二十代半ばの指し盛りの時期が、戦争と重なってしまったことでした。 升田青年は一人の兵士として南方のポナペ島(ポンペイ島)に送られ、そこで危うく命を落とす危機にも遭っています。 戦後、日本に帰国した升田青年は、実力通りに名人位に近づいていきます。 1946年に始まった第1期順位戦では、B級からA級に昇級しました。 1947年。 戦前に不敗を誇った木村義雄は、名人戦七番勝負で塚田正夫(1914-77)に敗れます。 ここで実力制名人戦史上初めて、名人位が交替しました。 第2期順位戦。 升田八段はA級で1位の成績を挙げました。 現在の規定であれば、これで名人挑戦権獲得です。 しかしこの時の規定ではA級1位、2位、3位とB級1位がプレーオフをおこなうことになっていました。 前年に升田がB級で抜群の成績をあげたためにその変更がなされたわけですが、運命は皮肉な形で、升田八段に不利にはたらいたことになります。 そしてまた皮肉なことに、升田八段が名人挑戦者決定戦で対戦することになったのは、B級から勝ち上がってきた大山康晴七段でした。 両者は同じ木見金治郎八段(没後追贈九段)門下で、兄弟弟子の関係にありました。 兄弟子の升田は常に弟弟子の大山に先行する立場でした。 「打倒木村」を標榜する升田に、いつしか大山が追いついてきていたわけです。 挑戦者決定戦の三番勝負は、真冬の高野山でおこなわれました。 下馬評ではもちろん、升田八段圧倒的有利。 しかし大山七段の実力は既に、兄弟子に迫るところまでに来ていました。 1勝1敗で迎えた第3局。 大熱戦を経て、最終盤は升田八段必勝となりました。 大山七段は飛車を成り込んで升田玉に王手をかける。 対して升田八段が手堅く合駒を打てば、ほぼそれまででした。 しかし升田八段はそうせずに玉を逃げてしまう。 そして大山七段が升田玉を詰め上げるという、世紀の大頓死となりました。 「錯覚いけない、よく見るよろし」 升田八段はそう言って、悲しくおどけたそうです。 もしここで升田が名人挑戦権を得て、相性のいい塚田名人に挑戦していれば、升田は名人となり、名人戦で連覇して、木村の次の永世名人になっていたかもしれない。 多くの升田ファンは後に、そんなことを思って慨嘆することになります。 1948年。 塚田名人は大山八段の挑戦を退けました。 翌1949年。 今度は木村前名人が塚田名人にリターンマッチを挑んみます。 そして木村名人復位となりました。 木村名人と升田八段は戦後、熾烈な競争を繰り広げました。 両者は盤上だけではなく、盤外でも張り合いました。 1949年、金沢でおこなわれた全日本選手権の対局の前夜。 木村名人と升田八段の間では、豆腐は木綿ごしがいいのか、それとも絹ごしがいいのかという、他の人にとっては「どっちでもええやないか」ということまで、言い争いのタネとなりました。 木村さんがトウフを突っつきながら、 「トウフってのは、うまいもんだね。 それももめんごしがいい。 絹ごしってのは、歯ごたえがなくていけないよ」 という。 名人のお言葉だから、関係者一同、ヘイさようでございと相槌を打つ。 その図がいかにもおかしかったんで、私はついこういってからかった。 「もめんごしなんて、ニガリが強くて食えたもんじゃない。 トウフは絹ごしが上等と決まっとるんだ。 名人は貧乏人の息子だから、絹ごしの味がわからんのと違うか」 自分が五反百姓のせがれなのはそっちのけで、いいたいことをいう。 出典:升田幸三『名人に香車を引いた男』 続くこの後が、将棋史中、白眉の名シーンです。 そのうちバカバカしくなって、 「名人がなんだ。 名人なんてゴミみたいなもんだ」 といってやった。 これには木村さんもムッとして、 「名人がゴミなら君はなんだ」 と切り返してきた。 「私ですか、さあ、ゴミにたかるハエみたいなもんですな」 出典:升田幸三『名人に香車を引いた男』 この一連のやり取りは「ゴミハエ問答」と呼ばれます。 「名人なんてゴミみたいなもんだ」 将棋界の第一人者である名人を前にしてそんな発言をする棋士は、後にも先にも、升田八段ぐらいでしょう。 1951年。 升田八段はついに名人戦七番勝負に名乗りをあげ、木村名人に挑むことになります。 しかしこの時は2勝4敗で退けられました。 1952年。 第1期王将戦の七番将棋において、今度は升田八段は木村名人を圧倒します。 そして4勝1敗という成績を挙げました。 現代の王将戦「七番勝負」では、どちらかが4勝をあげた時点で閉幕です。 しかし当時の王将戦「七番将棋」の規定では、そうではなかった。 3番差がついた時点で王将位が確定し、その上で手合が改められ、「半香」(平手と香落が一組の手合)に指し込まれることになりました。 つまりこの時、升田八段は木村名人を相手に香を引いて指すことが決まったのでした。 升田少年が描いた「名人に香を引いて勝つ」という途方もない夢の「名人に香を引く」というところまでは達成されたわけです。 ただしその香落番は指されませんでした。 升田新王将が対局を拒否したためです。 この大事件は対局場の名にちなんで「陣屋事件」と呼ばれます。 陣屋(現在の名称は「」)とは神奈川県・鶴巻温泉の名宿です。 将棋界では現在もここで、多くのタイトル戦がおこなわれています。 2011年3月、陣屋でおこなわれた王将戦七番勝負第6局、久保利明王将-豊島将之六段戦 木村名人との香落番がおこなわれる前日。 升田新王将は付添もなく、一人で陣屋を訪れることになった。 そして入口でベルを鳴らしても誰も来なかった。 升田は腹を立て、日頃の不満が爆発して対局を拒んだ・・・というのが一応の概略です。 ただし升田の本心は名人にの権威に傷をつけたくなかったという点にあり、ベルがどうこう、というのは口実だったようです。 当時の若女将(おかみ)宮崎カズヱさんは「ベルは飾りでした。 升田先生はそれをご存じでした」という。 出典:谷口牧生「朝日新聞」1995年6月9日夕刊 激しい気性と思われる升田には、実はそうした繊細な一面がありました。 升田は栄光から一転、将棋連盟の理事会側から対局拒否をとがめられ、出場停止の処分を科されそうになります。 将棋界は升田非難と升田擁護の二派にわかれ、大変な騒動となりました。 そこで事件の当事者であり、また将棋界の中心人物でもある木村名人が裁定が一任され、升田の行為は実質的に不問に付されることになりました。 升田は当時の心境を色紙に書き、陣屋に残しています。 「強がりが雪に轉んで廻り見る」 同じ1952年。 名人位は47歳の木村義雄から29歳の大山康晴へと移りました。 「良き後継者を得た」 名人戦で敗れた直後、木村はそんな言葉を残しています。 ほどなく、木村は現役生活を引退することになりました。 兄弟子の升田に先んじて名人になった大山は、着実に将棋界の第一人者としての実績を積み重ねていきます。 このまま大山名人の天下が続くかと思われたところで、升田八段は反転攻勢に出ました。 1955年度。 升田八段(当時)は王将戦七番将棋で、大山康晴王将(名人)に挑戦しました。 そしてこれまでのうっぷんを晴らすかのように3連勝で圧倒します。 名人を半香の手合に指し込んだ升田新王将は、香落番でも勝利。 「名人に香車を引いて勝つ」 という、少年時の夢を達成しています。 1957年。 王将位、九段位を併せ持つ升田二冠は、大山名人から、名人位も奪いとりました。 当時のタイトルは、その3つしかない。 升田は史上初めて、三冠同時制覇を達成したわけです。 そこで升田三冠はこんな言葉を残しました。 「たどり来て未(いま)だ山麓」 数ある名言の中でも、特に人気が高い言葉です。 これは升田の謙虚さの表れでもあり、また自戒の言葉でもあったのでしょう。 升田が普段自宅で使っていた駒箱の蓋には、次のように記されていたそうです。 たどり来て未だ山麓 大名人 升田幸三 謙虚な言葉を残す一方で「大名人」「超名人」「名人の上」など、思わず笑ってしまうような威勢のいい肩書を名乗るあたりも、升田幸三の魅力と言えるのでしょう。 「新手一生」(しんていっしょう) これが升田九段生涯のモットーです。 お墓にもその言葉が刻まれています。 升田九段は将棋界史を変えるような創造的、革命的な新構想をいくつも編み出した上で、木村14世名人、大山15世名人といった史上最強クラスを相手に、目の覚めるような鮮やかな勝利を収めてきました。 さて、数ある升田名言の中で、筆者が特に印象深い一つを選ぶとすれば、元日に詠んだというこの一句です。 「昨年のままで結構 女房殿」 人間・升田幸三の魅力と優しさを伝えて余りある、名句ではないでしょうか。

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