イエロー で ホワイト で ちょっと ブルー。 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』感想|杉本賢治|note

【読書感想文】ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー|AKIRA|note

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3月7日の「世界一受けたい授業」でという本が紹介されます。 「Yahoo!ニュース|本屋大賞 2019年ノンフィクション本大賞」他、 読者が選ぶビジネス書グランプリ2020 リベラルアーツ部門 埼玉県の高校図書館司書が選んだイチオシ本2019 第1位 第13回 神奈川学校図書館員大賞(KO本大賞) キノベス!2020 第1位 We Love Books 中高生におすすめする司書のイチオシ本2019年版 第1位 第7回 ブクログ大賞 エッセイ・ノンフィクション部門 第73回 毎日出版文化賞特別賞 第2回 八重洲本大賞 という数々の賞を総なめにした、話題の書籍。 作者はイギリスの保育士である、ブレイディみかこ氏。 福岡県出身の日本人で、現在はブライトン在住の作家。 その道ではとても有名な作家さんです。 あらすじは? 主人公は通っていたカトリックの公立小学校で、抜群の成績を誇る優等生。 そんな彼は中学校はエリート学校ではなく、自宅から近い学校に通うことに。 そこは、彼と同じような優等生ばかりが集う学校ではなく・・・ twitterの読者の感想や書評は? ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー/ブレイディみかこ イギリス在住の著者が、中学生になり著しく変化する我が子の周りの環境を客観的に描いている作品。 英国の教育というとイートン校のような場所が浮かぶような私にとって、刺激になったノンフィクション作品。 — Riri@読書垢 Ririy01books 今日、読破した本『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』評判の良かった本なので読んでみました👀 イギリスで暮らす、日本人の暮らしが描かれた内容で、人種差別や格差社会を考えさせられる内容でした。 いつか日本でもこんな未来がやってくるのかなと考えさせられました。 — マッシー 年下彼女の為に hdhhb633 「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」ブレイディみかこ 読了 この本、大好き💕というのが、いちばんの感想 仕事から帰って、家事を終えて、読むのがとても楽しみで、読み終わるのが残念だった。 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』面白かった。 人種差別とさLGBTの問題を扱っている作品だけど、言葉が真っ直ぐストンと入ってくる感じ。 色々考えさせれたし、元気になれる作品だった。 — 白蓮@ゆらら yurarra 「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」 昨年読んだ本。 子供の持つ感性とか考え方は僕らの想像なんて軽く越えてくる。 そんな忘れがちな事実と、イギリスの街で起こるリアルを教えてくれた。 とってもよかった。 最後のエピソードなんてもう、最高。 とてもクール。 カッコいい。 多感な思春期に、自らが感じて考えて、言葉にできるって本当にクール。 また読もう。 今後の人生でグリーンが何色に変わっていくのか楽しみだ。 — かわの 読書垢 kk031838 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー。 英国の元底辺中学校に入学した主人公。 毎日が事件の連続。 差別がいけないことはもちろん。 その根本は人を傷付けてはいけないということ。 自分では気づかず人を傷付けている事ってあるんだと思う。 だから知識やコミニュケーションは大事。 — 亮介 kYYr84ofghI3oEe と、読者さんもかなり面白かったと、高評価です。 ・思春期という多感な時 ・自分と全く考えの違う同年代と ・同じ学校に通う ということですから、自分の基準が相手には全く当てはまらない、ということもあります。 あなたの職場や学校などに、全く考えが合わない人っていませんか? 好きとか嫌いとか、そういうことではなく、根本的に自分と価値観が違い、考え方も異なる人。 そういう人がたくさんいる、そんな現実から何を学べるのか、わが身に当てはめて考えたら、実に興味深いストーリーですよね! 関連記事.

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大人の凝り固まった常識を、 子どもは子どもなりのやり方で 軽く飛び越えていく。 優等生の「ぼく」が通う元・底辺中学は、毎日が事件の連続。 人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。 時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり。 世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子とパンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。 落涙必至の等身大ノンフィクション。 優等生の「ぼく」が通い始めたのは、人種も貧富もごちゃまぜのイカした「元・底辺中学校」だった。 ただでさえ思春期ってやつなのに、毎日が事件の連続だ。 人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。 時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり……。 何が正しいのか。 正しければ何でもいいのか。 生きていくうえで本当に大切なことは何か。 世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と パンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。 連載中から熱狂的な感想が飛び交った、私的で普遍的な「親子の成長物語」。 はじめに 隣の部屋から、やけに軽快なギター・リフが聞こえてくる。 もうすぐ「ザ・ファンク・ソウル・ディスコ」というコンサートに出演する息子が、本番に向けてギターの練習をしているのだ。 ファンキーなタイトルだが、それはプロのコンサートではない。 中学校の講堂で行われる音楽部の発表会だ。 演奏するのは11歳から16歳までの中学生たちで、息子は下級生グループの中にいる。 だから、コンサートでもその他大勢的なパートを与えられているだけなのだが、まじめな性格なので日曜の朝から練習に没頭している。 「おめえ、ちょっとアンプの音量を落としてくれねえか。 テレビが聞こえねえぞ!」 と階下から叫んでいるのはわたしの配偶者だ。 夜間シフトでダンプを運転して帰ってきたばかりなので気が立っているのだろう。 23年前にわたしが知り合った頃は、ロンドンの金融街シティというところにある銀行に勤務していたのだが、数年後にリストラされ、また同じような仕事に就くのかなと思ったら、 「子どもの頃にやりたいと思っていた仕事だから」 と言って大型ダンプの運転手になった。 わりと思いきったことをする人である。 わたしはこの配偶者と一緒に英国の南端にあるブライトンという街にもう20年以上前から暮らしている。 そして息子が誕生してからは3人暮らしになった。 息子が生まれるとわたしは変わった。 それまでは「子どもなんて大嫌い。 あいつらは未熟で思いやりのないケダモノである」とか言っていたくせに、世の中に子どもほど面白いものはないと思うようになって保育士にまでなったのだから、人生のパラダイムシフトと言ってもいいかもしれない。 とはいえ、保育士になったおかげで、わたしは自分の息子とは疎遠になった。 彼が1歳になるとすぐに、わたしは(「底辺託児所」と自分で勝手に呼んでいた)保育施設で見習いとして働き始めたからだ。 職場には息子も一緒に連れて行っていいことになっていたが、保育士の資格を取るために実習を行っているのだから、自分の子どもと遊んでもしょうがない。 そのため、託児所で彼はほとんどわたしから引き離されていた。 こんなことをすると「なんでうちの母ちゃんはよその子とばかり遊んでいるのか」という嫉妬心で子どもがひねくれ、素行が荒れるので、保育士は職場に自分の子どもを連れて行くべきではないという人も多い。 だが、うちの息子はすくすくと育った。 託児所の創設者であり、地元では伝説の幼児教育者だった師匠アニーが、わたしが心おきなく実習できるよう、ほとんど専属保育士のように息子の面倒をみてくれたからだ。 幼児時代の息子は、わたしではなくアニーに育てられたと言ってもいい。 わたしの子どもにしてはバランスの取れた性格になったのはそのおかげだと思う。 いまでも、いったい誰に似たのかと驚くほど沈着冷静なことを彼が言うときには、彼の中から師匠が喋っているような気になることがある。 そんな風にして底辺託児所で幼児期を過ごした息子は、地元の公営住宅地の中にある小学校ではなく、カトリックの小学校に進学した。 そこは市のランキングで常にトップを走っている名門校だった。 公立だったが裕福な家庭の子どもが多く通っていて、1学年に1クラスしかない少人数の教育を行っていた。 森の中に建てられたこぢんまりとした煉瓦の校舎に机を並べ、7年間を同じクラスで過ごす子どもたちは卒業する頃には兄弟姉妹のように仲良くなっていた。 ふわふわしたバブルに包まれたような平和な小学校に、息子は楽しそうに通っていた。 たくさん友達もでき、先生たちにもかわいがられて、最終学年になったときは生徒会長も務めた。 すべてが順調で、うまく行きすぎて、正直、面白くないぐらいだった。 わたしには、彼の成長に関わっているという気があまりしなかった。 幼児のときは師匠アニーが育ててくれたし、その後は、牧歌的な小学校が育ててくれた。 わたしの出る幕はなかったのである。 ところが。 息子が中学校に入るとそれが一変することになった。 彼はカトリックの中学校に進学せず、「元底辺中学校」に入学したからである。 そこはもはや、緑に囲まれたピーター・ラビットが出てきそうな上品なミドルクラスの学校ではなく、殺伐とした英国社会を反映するリアルな学校だった。 いじめもレイシズムも喧嘩もあるし、眉毛のないコワモテのお兄ちゃんやケバい化粧で場末のママみたいになったお姉ちゃんたちもいる。 これは11歳の子どもにとっては大きな変化だ。 大丈夫なのだろうかと心配になった。 ようやくわたしの出る幕がきたのだと思った。 とはいえ、まるで社会の分断を転写したような事件について聞かされるたび、差別や格差で複雑化したトリッキーな友人関係について相談されるたび、わたしは彼の悩みについて何の答えも持っていないことに気づかされるのだった。 しかし、ぐずぐず困惑しているわたしとは違って、子どもというものは意外とたくましいもので、迷ったり、悩んだりしながら、こちらが考え込んでいる間にさっさと先に進んでいたりする。 いや、進んではいないのかもしれない。 またそのうち同じところに帰ってきてさらに深く悩むことになるのかもしれない。 それでも、子どもたちは、とりあえずいまはこういうことにしておこう、と果敢に前を向いてどんどん新しい何かに遭遇するのだ。 「老人はすべてを信じる。 中年はすべてを疑う。 若者はすべてを知っている」と言ったのはオスカー・ワイルドだが、これに付け加えるなら、「子どもはすべてにぶち当たる」になるだろうか。 どこから手をつけていいのか途方にくれるような困難で複雑な時代に、そんな社会を色濃く反映しているスクール・ライフに無防備にぶち当たっていく蛮勇(本人たちはたいしたこととも思ってないだろうが)は、くたびれた大人にこそ大きな勇気をくれる。 きっと息子の人生にわたしの出番がやってきたのではなく、わたしの人生に息子の出番がやってきたのだろう。 この本はそんな息子や友人たちの中学校生活の最初の1年半を書いたものです。 正直、中学生の日常を書き綴ることが、こんなに面白くなるとは考えたこともなかった。

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あらすじ 大ファンであるブレイディみかこさんの新刊がこのところ立て続けに出た。 岩波書店からは。 そして本日紹介したい新潮社からのである。 内容はブレイディさんの息子さんのセカンダリースクール(11歳から16歳まで通う日本の中学校に該当するもの)でのさまざまな体験を綴ったもの。 乳幼児期はブレイディさんが働くいわゆる「底辺託児所」に通い、そこで経験豊かなブレイディさんの師匠筋にあたる責任者に見てもらい、小学校は教育熱心な牧歌的カトリックスクールに通っていた優等生の子。 ところが、中学校もそのまま優秀なカトリック中学に通うのかと思いきや、なぜか近くの元底辺中学であった学校に通い始め、様々な体験を重ねていく中でなかなかドラマチックな日常が綴られる物語。 ブレイディさんの働いてきた保育所の話などを読めば(『子どもたちの階級闘争』など)、底辺層の子供たちの話などから大変さには思いは至るが、息子さんが通う中等学校はもっと多様で、複雑で、さまざまなレイヤー(層)の子どもたちのあいだで教育が行われていることに、結果として、その先駆性に驚かされる。 ある種単純で波風が立たない環境をよしととしてきた、私のような初老期の子どもを持たない者には、その「壁の薄さ」へ向かう力学を強烈に感ずる。 社会的アクチュアリティへの対応力の強さだ。 さまざまなレイヤーとエンパシー そのさまざまに複雑なレイヤー(層)とは何か。 例えばEU離脱派と残留派、移民と英国人、様々な階層の移民どうし、階級の上下、貧富の差、高齢者と若者たちなどの分断などなどだ。 そのため、教育にも「シチズン・シップ」の学習に力が入れられている。 英国ではこれらのことについて11歳から学んでいる。 特筆に値すると思う。 この学習の中でエンパシーとは何か?という問いも設問される。 エンパシーとは他人の経験や感情を想像し、理解しようとする「能力」。 だからシンパシーとは違い、意識的に努力して学んでいかねばならない。 経験の異質性を解って行こうとする努力。 多民族化、アイデンティティが多様化する英国では特に大事な能力になっていくという見立てゆえだろう。 その意味では、愛読者側として知っているエンパシーの能力を磨きに磨いてきたブレイディさんと、相当クオリティの高い共感力をもつ息子さんのエンパシーを磨く修行がお互いに共鳴しているように読める(学校生活において、日本に旅行に来て典型的なオヤジに絡まれることにおいて、人種的な問題について、移民や貧困下にある同級生と接することについてなど)。 いや、よく読むと修行という言葉は違う。 息子さんはしなやかに、学校生活にも、教育にも適応している。 もちろん、時に悩み、時にブルーになりながらも。 ほかにも思うのは息子さんの世界だけでなく、英国の庶民層が見ている「社会」は外に開かれている世界だな、という印象だ。 階級というか、格差が隠蔽されずにオモテに出ているし、性に寛容であるブライトンという土地柄ゆえか、カップルや愛のかたちも多様。 そのような環境の中でブレイディさんの息子さんはさまざまなレイヤーの中で育ち、さまざまなカラーの中で新しい考えが生まれ、こころをひらき、思春期の子として友や周囲の大人を気遣い、自分がコミュニティとなんらかの絡みがあるはずと考える。 アイデンティティの多様化と同朋意識 幾つも印象的なエピソードがあるのだが、中でも中国系の生徒会長が東洋系の自分に同胞意識を持ち、守り接してくれることに戸惑う場面で、ブレイディさんに自分の思いを語る息子さんのことばが印象深い。 ぼくは東洋人の生徒会長が思うほど、自分を東洋人と思ってない。 ピンと来ない。 仲間意識の感情が強いんだな、って。 僕はそういう気持ちが持てない。 僕はどこかに属している気持ちが持てない。 悪い部分も、いい部分もない。 220ー意訳) これが排外主義的な態度を持つハンガリー系の友人や貧困地域に住む英国人の友人を持ち、日本で知らないオヤジからガイジン扱いでいわれない批判的な目線を向けられたプレ思春期の子どもの悩みなのだ。 何と曇りない大人な悩みなのかと思う。 子どもを社会が育てる そのほかにも英国の子どもたちが大人たちのドラッグ禍に巻き込まれるさま(の世界は虚構でない、と思ってしまう)や、そのような問題もあるためか、教室格差などもありつつも、教育機関から離れていると親に罰金が科される制度など、明らかに英国は家庭中心ではなく、「社会が子どもを育てる」土壌が強い文化だなと思う。 ゆえにソーシャルワーカーの権力が強く、子供が親から引き離され、里親などに引き渡される傾向もけっこうあると思える。 このあたり親子の結びつきが強い日本の文化では違和感が持たれそうだ。 ただ、日本でも最近は親の虐待事件が多発しているので、今後は今よりも子どもは社会が守るもの、という風に変わっていくかもしれない。 いずれにしても、英国は移民の包摂や、アイデンティティの多様化が開かれ、オープンな社会になっており、そこでは揺れ幅も大きいかもしれないが、国としてはその分だけさまざまに免疫が強い、オープンゆえに、おそらく今後も世界の動向的にも先頭集団としての力を発揮する国であり続けるのではないかなと思う。 ブレイディさんの息子さんが受けている教育、その市民教育への目配りの高さを考えると、そう思われるのだ(ただ逆にそこからこぼれ落ちてしまう子は極めて大変なのかもしれない)。 対比して日本の初等中等教育などでどのような変化があるのか子どもが居ない自分にはわからず、なんとも言えないが、やはり英国に比べてその潮流に乗り遅れているところがあるのではないかと想像する。 例えば感情を押し殺すのではなく、感情を正確に相手に伝える教育に力を入れる英国のコミュニケーション教育ひとつとってもそうだろう。 普遍性を獲得しつつある筆力 作品については、ブレイディさんのいままでの作品の中ではもっとも読みやすく、一般性があるのではないかと思う。 明るい黄色な表紙と爽やかなイラスト通りに、爽やかなプレ思春期でありつつ、いたいけなまでに大人っぽい少年の成長物語はちょっと懐かしいビルドゥィングス・ロマンの現代版を感じさせる。 ブレイディさんの文筆も普遍的に読ませる力量に至っている(偉そうですみません)。 最後に最近のブレイディさんの描写を読んでいると、かつての誰かを思わせるな…とずっと考えていたのだが、思い出した。 それはを読んだ時の感触だ。 今回、米原さんのタイトル表題作を読み直したが、流石の力量であった。 ただし米原さんの作品のほうが昔の友人と大人になって再会しても、かなり理詰めで向き合って議論的、ある種アグレッシブなのには再読して驚いた。 むしろブレイディさんのほうが、持っていたパンクなイメージよりもずっと相手の感情を大事にされているとさえ思える。 ただ、お互いのアティチュードはきっと似ていると思う。 時代や立場の違いもあるかもしれない。 話がずれたけれど、元来ブレイディさんが持つアナーキーな感触、闘士女性たちの憑依(?)する清冽な情熱が沸々湧き上がる鋭利な意識はのほうにある。 こちらにも作家としての筆力的な成長にびっくり。 ある意味ではブレイディさんのもう一つの側面がこちらにはあります。 また時間があればそちらの感想もかければ幸いです。 忘れていました!ぜひ「ぼくはホワイトで~」は中学や高校の学習参考書にして欲しいと思います。 それだけの価値ある本だと思います。

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