マン フレッド 交響曲。 集中連載 ヘンツェのまなざし【第1回】

マンフレッド交響曲

マン フレッド 交響曲

そしてREFERENCE RECORDINGSはもちろん、PENTATONE,BIS,など録音に定評のある数々のレーベルの録音を40年以上に渡って担当しているsound mirror社がタッグを組んだ大好評「ピッツバーグ・ライヴ! 」シリーズ。 シリーズ第10弾は、チャイコフスキー交響曲第4番。 第6番「悲愴」 FR. 5697 でも圧倒的な演奏を聴かせてくれただけに期待が高まります。 交響曲第4番を作曲していた頃、チャイコフスキーは「白鳥の湖」の失敗や望まない結婚など、作曲家としても人生でも激動期でありました。 それを支えたのは、経済的な支援を行ったメック未亡人や友人たちであり、この作品の楽譜には「我が最高の友人たちへ」という献辞が書かれています。 第1楽章冒頭、壮大なファンファーレで開始されます。 金管の名手揃いのピッツバーグ響ですが、ホーネックは意外にも抑え気味に鳴らします。 その後の弦も丁寧に描き、第2楽章の端正なオーボエ、木管群の多彩な描写力は見事。 第3楽章では、弦のピチカート、オーボエの民族風の旋律、そしてトランペットの行進曲など、ホーネックらしい勢いとリズム感で進み、第4楽章ではクライマックスまで一気に駆け抜けます。 また、sound mirror社の高品位な録音で、金管の厚みのある響きや、弦の艶と華やかさを巧みにとらえています。 ピッツバーグ響の二人の名手による見事な演奏で披露された、カップリングのジョナサン・レシュノフのクラリネットとファゴットのための二重協奏曲は、ピッツバーグ響による委嘱作品。

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カール・アマデウス・ハルトマン

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ウィーンフィル(指揮:ファビオ・ルイージ)2006年 [00:00]第1楽章:Andante un poco maestoso — Allegro molto vivace [12:09]第2楽章:Larghetto — attaca [18:43]第3楽章:Scherzo. Molto vivace [24:11]第4楽章:Finale. Allegro animato e grazioso 「クララとの結婚」の翌年に作られた シューマンは1840年にクララと結婚します。 この1840年は「歌曲の年」と言われ、多くの歌曲の傑作が誕生しました。 この年だけで、二つの「リーダークライス」「ミルテの花」「女の愛と生涯」「詩人の恋」が作曲されました。 それまで歌曲を重要視していなかったシューマンにとっての大きな変化でもありました。 そして「歌曲の年」の翌年(1841年)に、「交響曲第1番」が作曲されます。 「交響曲第4番」も1841年に書かれました。 これはシューマンの作曲活動が「ピアノ・声楽作品から交響曲へと移る」重要な時期でした。 1842年には3曲の「弦楽四重奏曲」「ピアノ五重奏曲」「ピアノ四重奏曲」と言った多くの室内楽曲が作られます。 シューベルト「交響曲第8番」の影響を受けた!? シューベルトの死後、シューベルトの仕事机はそのまま保管されていました。 シューマンは1839年にシューベルト宅を訪れたときに、彼は長大な交響曲を発見します。 これこそが「交響曲第8番ハ長調」でした。 ここで「シューベルトは小規模な作品を作曲する作曲家」だと認識していたシューマンの考えは大きく覆されたそうです。 作品に感動したシューマンの熱意が実り、この「交響曲第8番」は初めて世に出ます。 同年友人メンデルスゾーンの指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって、十数年の時を経て初演されました。 シューベルトの「交響曲第1番」はこの少し後に書かれています。 「第1番」は至る所でシューベルト「交響曲第8番」の影響を受けているとも評されています。 副題の「春」について 「交響曲第1番」には「春」という副題が付いています。 これは作曲者自身によって付けられたもので、そのぞれの楽章に「春の始まり」「たそがれ」「楽しい遊び」「春たけなわ」という標題が付いていました。 この交響曲自体も「春の交響曲」と当初は呼ばれていました。 これが後に取り除かれ今の形となっています。 友人メンデルスゾーンの指揮で初演 「交響曲第1番」の初演は、1841年3月31日にメンデルスゾーンの指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって初演されました。 先ほどのシューベルト「交響曲第8番」と同じコンビでした。 ちなみにクララのプロデビューもライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でした。 (1828年、9歳の時) 曲の構成 第1楽章:Andante un poco maestoso - Allegro molto vivace 変ロ長調 春を告げるように序奏はじめにトランペットとホルンがファンファーレ風な動機を示す。 第2楽章:Larghetto - attaca 変ホ長調 第1楽章のコーダから派生した長い主題が弦によって奏でられる。 やがて出てくるトロンボーンの三重奏は、第3楽章の主題を暗示している。 音楽はそのまま休みなく第3楽章に入る。 第3楽章:Scherzo. Molto vivace ニ短調 シューマンらしい優美で幻想的な音楽が印象的である。 第4楽章:Finale. Allegro animato e grazioso 変ロ長調 第1楽章冒頭を彷彿させる全合奏による序奏で始まる。 その後登場する第1主題も第1楽章からきている。 第2主題は2つの部分からなり、前半はピアノ曲集「クライスレリアーナ」の終曲からきている。 シューマン「交響曲第1番」の名盤 パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィル パーヴォ・ヤルヴィによるシューマン交響曲全集録音の第1弾で、交響曲第1番「春」と第3番「ライン」が収録されています。 「シューマン愛」を公言しているヤルヴィは、シューマンの演奏を「作品にある感情の起伏や途方もないエネルギーを恥ずかしがらずに出さなければ、シューマンの本当の魅力が伝わらない」と語っています。 N響、都響など日本のオケとも共演しており、2015年にはN響の初代首席指揮者にも就任した。 ドイツ・カンマーフィルとはベートーヴェン交響曲全曲(2006年-2009年)も録音している。 ドイツ・カンマーフィルハーモニー(ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団) ドイツ・ブレーメンに本拠を置く室内オーケストラ 2004年にパーヴォ・ヤルヴィが芸術監督に就任してから国際的に評価を高めている。 レパートリーをバロックから現代音楽まで拡大しているが、その中心はベートーヴェンの交響曲である。

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「くるり」のフロントマンが挑戦した、交響曲の大作 岸田繁(後編)

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生涯 [ ] 画家フリードリヒ・リヒャルト・ハルトマンの末子として生まれる。 長兄アドルフ・ハルトマンも肖像画家であった。 から学校教育を受けるが、この頃すでに音楽を天職と自覚していた。 からまで国立ミュンヘン芸術音楽アカデミーに通い、を学ぶかたわら作曲を ()に師事。 最初の作品はバイエルン国立歌劇場などで多くの聴衆を前に上演された。 やに影響された作曲の試みもこの頃にさかのぼる。 しかしながらハルトマンは、これらの初期作品を後になって破棄している。 この頃からと生涯にわたる親交を結び、中はで接触を続けた。 にエリザベート・ロイスマンと結婚し、翌年に息子リヒャルトを儲けた。 から翌年にかけて、への抗議の意思表明として管弦楽曲「ミゼレーレ Miserae 」を作曲する(初演)。 この頃をピークに、にナチス政権が転覆するまでの間、もはや自作が上演されなくなる。 ハルトマンは説得こそされなかったものの、いわゆる「国内亡命」を余儀なくされ、なかんずく妻の両親の援助で生計を立てつつ、「抽斗のための」作曲を続けた。 戦時中に近郊のマリア・エンツェルスドルフでの薫陶を受け、その後の創作に重要な影響を受けた。 にバイエルン国立劇場の演出家に任命される。 明くる、大幅に改訂された管弦楽曲を「交響曲」の題名で公表する。 いっぽう、新設されたバイエルン放送と共同で、前衛音楽の上演のための音楽団体「ムジカ・ヴィヴァ」を旗揚げし、没年までその活動に全身全霊を傾けた。 戦後は自作から最も政治的な痕跡を拭い去り、ナチス時代に積極的に活躍したやらの作曲家に対して、当初は諍いを起こしたものの、和解を申し出た。 において決定的に名誉回復を受けていながら、からの移住要請にも気をそそられていた。 作品の上演回数が上向くに連れてハルトマンの知名度も上がり、数多くの名誉(とりわけ、ミュンヘン市やワシントン州スポカネ音楽院などからの音楽賞)を受けた。 1963年にのため他界。 作品と事績 [ ] ハルトマンの最も成熟した、最も名高い作品、すなわち8つの交響曲は、いずれも戦後になって完成された。 恐らく最も有名なのは、「レクィエムの試み Versuch eines Requiems 」と題された「交響曲 第1番」であろう。 この曲は元来、の詩集からの抜粋に基づき、アルト独唱と管弦楽のためのとしてに構想された。 この作品は、やがて交響的断章「我らが日常 Unser Leben: Symphonisches Fragment 」として知られるようになり、芸術家やリベラル志向の個人にとってナチ体制下初期のほぼ惨憺たる状況についてのコメントとして企図された。 が第二次世界大戦に敗れてから、この体制の真の犠牲者がはっきりすると、カンタータは交響的断章「レクィエムの試み」に改名され、幾万ものの犠牲者の追悼作品と位置づけられた。 改訂はからに進められ、に最初の交響曲として出版された。 ハルトマンの作曲様式は折衷的である。 初期作品においてやの影響が歴然としており、の手法はに感化されていた。 後に、や中期のら、の足跡を辿るようになる。 に師事したにもかかわらず、の作曲家では、との二人に、より深く啓発されていると自覚していた。 第2次世界大戦後のハルトマンは、ミュンヘンの演奏会シリーズ「ムジカ・ヴィヴァ」の統率者としてドイツ楽壇の重鎮となった。 旧師ハースの後を継いで、の運営にも関与している。 ハルトマンは西ドイツ国民に、ナチスの文化政策によって禁じられた現代音楽の存在へといま一度ふり返らせたのだった。 作品一覧 [ ]• ハルトマンの主要作品は、作曲家の存命中からドイツの主要な音楽家により初演されてきた。 交響曲については、、、、らが名を連ねており、「歌の情景」の初演歌手はであった。 クーベリックとディースカウは、「歌の情景」の初録音も行なっている。 第6番までの交響曲は、第2番を除いてすべて戦時中の作品からの改作である。 第3番は、1944年の交響曲「嘆きの歌 Klagegesang 」と1940年の「悲劇的交響曲 Sinfonia tragica 」が前身であり、第4番は1938年の「ソプラノ独唱と弦楽のための交響曲」のうち、歌手の入るフィナーレをカットし、新たな楽章に書き換えたものである。 第5番は、1932年の「トランペットと吹奏楽のための協奏曲」と、その編曲版である1949年の「吹奏楽とコントラバス、2つのトランペットのための協奏曲」に基づいている。 そのかたちでは、すでに1939年にリエージュで初演されていたのだが、改訂にあたって楽章の配列を入れ替え、文学的な発想が分からないようにされた。 コミック・ファンタジー室内オペラ「 Wachsfigurenkabinett 」(1928 - 30年)• 室内オペラ「 Des Simplicius Simplicissimus Jugend 」(1934 - 35年)• カンタータ「歌の情景 Gesangsszene 」(歌詞:の「ソドムとゴモラ」、1963年未完。 ウェーベルン研究家ハンス・モルデンハウアーに献呈)• 交響曲• 第1番「レクィエムの試み」(1935 - 36年)• 第4番(弦楽合奏のために、1947年)• 第2番「アダージョ」(単一楽章、1948年)• 第3番(1948 - 49年)• 第5番「 Symphonie Concertante 」(1950年、第2楽章は「メロディ」と題され、の「」第1部の導入部が引用される)• 第6番(1952 - 53年)• 第7番(1956 - 58年。 音楽財団からの委嘱作品)• 第8番(1960 - 62年)• 交響詩「ミゼレーレ」(1934年)• 協奏曲(全7曲)• ヴァイオリン協奏曲「葬送協奏曲」(のに基づく。 ナチスへの抵抗作品)• 室内楽• 弦楽四重奏曲 第1番 「 Carillon」(1933年)• 弦楽四重奏曲 第2番(1945 - 46年)• 無伴奏ヴァイオリンのための組曲第1番 1927• 無伴奏ヴァイオリンのための組曲第2番 1927• 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 1927• 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番 1927• ピアノ曲• ジャズ風トッカータとフーガ Jazz-Toccata und -Fuge (1928年)• ソナチネ Sonatine (1931年)• 小組曲 Kleine Suite• 無題(組曲第2番 Suite Nr. ピアノ・ソナタ「1945年4月27日」 Sonate "27. April 1945" 外部リンク [ ]• (独語・英語) 脚注 [ ].

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