鳥栖空襲。 都市空襲

佐賀)鳥栖駅130年の歴史振り返る、線路下ギャラリー:朝日新聞デジタル

鳥栖空襲

今日、久しぶりに藤木町老人クラブ「藤寿会」の誕生会に参加。 私が到着したころ、ちょうど「鳥栖空襲」についてのお話があっていました。 昭和20年8月11日午前11時頃、米軍のB-25が飛んできて、たくさんの爆弾を落としていき、藤木町にも爆弾が落とされ、民間人40名や軍人・鉄道職員が犠牲になられました。 時間にして15分ほどだっただろうとのこと。 その時の様子を克明にお話いただきました。 今日の日本経済新聞の「春秋」の欄には 「八月や六日九日十五日」 という句が紹介されていました。 なるほど、日本人にとって8月と言えばこの3つの日に想いをはせるのでしょう。 だけども藤木町など「鳥栖空襲」に遭われた方にしてみれば、8月といえば先程の3つの日に11日も加えられるのでしょう。 明日がその8月11日。 終戦まであと4日だから、犠牲になった方々がそのことを知れば残念無念に思うはずです。 中には2歳の子ども等も含まれているのですからなおさらです。 毎年8月に入ると終戦記念日の頃まで 「私たちが生きている現在は、犠牲になられた方々が生きたかった明日なのだ」 との想いを強くするのですが、今日の「鳥栖空襲」のお話を聞いてその想いが一層強く感じる時間でした。 明日はあらためてじっと手を合わせ、そして平和を祈ろうと思います。

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鳥栖空襲

鳥栖空襲

(あらすじ)• (ビデオ再生時間:4分27秒 音声読み上げ時間:約8分) 福岡に住む小学校6年生のだいきちくんは、たまたま訪れた鹿児島市で、およそ70年前の鹿児島大空襲について知ります。 昭和20年(1945年)3月から8月にかけて8回の大空襲を受け、3千人以上の方が亡くなったこの戦災の事実に、だいきちくんはショックを受けます。 だいきちくんはこのことをきっかけに地元の福岡についても調べることにしました。 (ビデオ再生時間:4分51秒 音声読み上げ時間:約9分) 九州最大の都市である福岡市は、昭和20年(1945年)6月19日に激しい空襲を受けていました。 毎年この日の前後には戦災の追悼式が市内各地で行われていることを知っただいきちくんは、博多区で開かれている慰霊祭に参列しました。 空襲から70年近く経った今も犠牲者ご遺族の悲しみが癒えていないことをだいきちくんは目の当たりにします。 (ビデオ再生時間:8分56秒 音声読み上げ時間:約17分) 福岡市内の小学校では戦災の記憶を今に伝える取り組みが行われています。 だいきちくんは、校内に福岡大空襲の資料を展示している小学校を訪ねます。 また、別の小学校で開かれた空襲体験者のお話会に参加しただいきちくんはある疑問を持ちます。 当時を知る人たちは思い出したくもない辛い記憶をどうしてぼくたちに伝えてくれるんだろう?• (ビデオ再生時間:4分42秒 音声読み上げ時間:約8分) 空襲で焼け野原になった鹿児島市内を撮影した故・平岡正三郎さんのお話を知っただいきちくんは、戦災の事実を記録すること、そしてそれを学ぶことの大切さを学びます。 福岡、鹿児島を初めとする九州各地の戦災に関する追悼式や地域の博物館、資料館などにも当時を知る手がかりがあることを紹介します。 福岡に住む小学校6年生。 鹿児島の親戚の所に遊びに来たんだ。 」 桜島、錦江湾、鹿児島市内を見下ろす景観(市内の城山展望台からの俯瞰) だいきちくん「鹿児島と言えば桜島。 ここ城山展望台から見る雄大な風景が最高なんだ。 でも、これが全く違って見えた時代もあったんだよ」 効果音「カメラのシャッター音」 空襲により焼け跡となった鹿児島市内の写真(昭和20年11月撮影) テロップ「提供:鹿児島市 撮影:平岡正三郎」 だいきちくん「昭和20年、1945年の写真。 まるで町中で火事が起こったように焼けこげている。 炎上する軍艦「アリゾナ」。 米軍機の編隊。 テロップ「太平洋戦争 昭和16年(1941)-昭和20年(1945)」 テロップ「米国国立公文書館所蔵」 だいきちくんの声「今から70年以上前、日本はアメリカを初めとする連合国と戦争をしていた」 写真「飛行する大型爆撃機B-29」 テロップ「米国国立公文書館所蔵」 効果音「爆発音」 写真「B-29の編隊が焼夷弾を落とす」 資料映像「日本を爆撃するB-29(米国国立公文書館 資料映像)」爆撃をするB-29。 投下される焼夷弾。 テロップ「米国国立公文書館所蔵」 テロップ「空襲」 だいきちくんの声「昭和20年(1945年)、アメリカ軍の攻撃は激しくなり、日本全国が空からの攻撃「空襲」を受け、B29爆撃機からたくさんの焼夷弾が落とされ、日本中が火の海となった…」 CGの日本地図全土から九州地方にズームイン だいきちくんの声「九州でもたくさんの街が焼け野原になったんだ…」 各地の空襲(焼け跡)写真が次々と展開。 都市名と空襲のあった日がテロップで表示される• 鹿児島 6月17日• 福岡 6月19日• 佐世保(長崎) 6月28日• 延岡(宮崎) 6月29日• 熊本 7月1日• 大分 7月17日• 鳥栖(佐賀) 8月11日 鹿児島空襲(焼け跡)写真 テロップ 「鹿児島市の戦災 昭和20年(1945年)3月18日〜8月6日 8回の大空襲 死者3,329人」 だいきちくんの声「九州で最も被害が大きかったのが鹿児島市。 8回の大きな空襲を受け、3千人以上が亡くなっている。 」 テロップ「昭和20年(1945年)6月17日 鹿児島大空襲 死者:2,316人 負傷者:3,500人」 だいきちくんの声「昭和20年6月17日深夜の鹿児島大空襲では、一晩で2,316人が命を失ったんだ。 みんなは想像できる?」 木漏れ日(太陽) 鹿児島市広馬場通り(鹿児島で一番の繁華街、天文館に程近い場所) テロップ「鹿児島市」 だいきちくんの声「鹿児島市内では、毎年空襲の日に合わせて追悼式が行われている」 広馬場通りの戦災鎮魂慰霊祭 テロップ「広馬場通り 戦災鎮魂慰霊祭」 広馬場通り 戦災鎮魂慰霊の碑 だいきちくんの声「この慰霊碑は、春成幸男さんが平成16年に建立したんだ」 立ち並ぶ参列者 春成幸男さんの横顔アップ テロップ:春成幸男さん 87 春成さんの当時の写真(学生時代) だいきちくんの声「春成さんは空襲のあった6月17日の深夜、両親、そして弟、妹たち一家8人で近くの防空壕に逃げ込んだ」 テロップ「防空壕」 春成さんの両親の写真 テロップ「父 直助 母 梅」 だいきちくんの声「でもお父さんの言いつけで大切な忘れものを取りに1人家へ戻った。 それが運命の別れ道になったんだ…」 家族7人の写真 だいきちくんの声「家族7人は防空壕で蒸し焼きとなり、翌朝帰らぬ姿で発見された…」 テロップ「父 直助 63才 母 梅53才 五女 ミツ子22才 六女 澄子17才 七女 九ミ子15才 五男 敏明 12才 六男 敏郎 10才」 慰霊碑に手を合わせる春成さん だいきちくんの声「春成さんだけが1人取り残された…」 春成幸男さんインタビュー 春成さん 「自分だけが助かったということで。 もうとにかくその残された者っていうのはね、死んだ者よりもうものすごく苦しかったです。 だから今87歳ですけど、その時の想いっていうのは未だに忘れられないですね。 …残された者の使命というのは、どういうものがあるのかという事をいつも考えてました。 なんか自分に、あとは頼むよと、いうことがあったんじゃないかと思って…」 テロップ「残された者は死んだ者よりも(ある意味では)苦しい」「残された者の使命」「あとは頼むよ…」 手を合わせる春成さん だいきちくんの声「春成さんは家族を含む、空襲犠牲者のため、毎年慰霊祭を行っている」 桜島の夕景を背景にだいきちくん登場 だいきちくん「九州の他の場所でも同じように悲しい出来事があったんだと思う。 人口150万を超す、九州を代表する大都市」 博多の街並み(商店街の人混み) だいきちくんの声「中でも博多は、商業・文化の中心地として歴史がある街なんだ」 街の賑わい 博多座 外観ロング、行き交う人々 だいきちくんの声「ここは博多座。 毎年恒例の6月歌舞伎が開催されている」 提灯、のぼり旗 演目の看板、同アップ 博多座前の通り だいきちくんの声「実はこの賑やかな場所も激しい空襲を受けていたんだ…」 那珂川の川岸 博多 中州の夕景 川からパンアップ 雲に テロップ「昭和20年(1945)6月19日」 だいきちくんの声「昭和20年6月19日…」 資料写真:B29の飛行、投下される焼夷弾 焼夷弾の落下と炎が重なる。 テロップ「提供:福岡市市立博物館」 だいきちくんの声「深夜11時11分。 アメリカ軍の爆撃機B29 60機余りが福岡の街を襲った。 焼夷弾による爆撃で市内中心部は次々と燃え上がり、人々は逃げ惑った」 十五銀行ビルの写真 モノクロ十五銀行ビルがズームとともにカラーになる テロップ「(C)アソシエ地図の資料館」 だいきちくんの声「現在の博多座の場所には、当時十五銀行という銀行が建っていたんだ。 空襲から逃れようと建物の地下室に63人が逃げ込んだけど…全員蒸し焼きのような状態で亡くなっている」 福岡大空襲の焼跡写真 テロップ「提供:福岡市博物館」 テロップ「昭和20年(1945)6月19日 福岡大空襲 犠牲者:902人 負傷者:1078人」 だいきちくんの声「空襲はおよそ2時間も続き、900人以上が犠牲になったんだ…」 記念群像のアップ 西中洲公園の「戦災復興記念群像」 テロップ「戦災復興記念群像」 だいきちくんの声「福岡市では空襲の悲劇を忘れないよう、慰霊碑の建立や追悼式を開催しているんだ」 冷泉公園 テロップ「冷泉公園」 テロップ「平成25年 2013 6月19日」 テロップ「福岡市戦災引揚死没者追悼式」 市長の挨拶 福岡市長の式辞「…68年前の今日、昭和20年6月19日、 突然の大空襲により一夜のうちに福博の街は火の海と化し、多くの方々の尊い生命が失われました…」 テロップ「福岡市長の式辞」 テロップ「多くの方々の尊い生命が失われました」 参列する遺族の方々 だいきちくんの声「博多区の冷泉公園で行われている追悼式」 数珠を持つ参列者 献花をする市民 菊のアップ 追悼式全体引き画 挨拶される遺族代表の樋口さん テロップ「樋口泰助さん(74歳)」 だいきちくんの声「空襲犠牲者の遺族代表として挨拶する樋口泰助さん」 樋口さんの挨拶 テロップ「その時の悲しみ苦しいをずっと…時が経つにつれても、色あせることはありません」 樋口さん「その時の悲しみ苦しいをずっと…時が経つにつれても、色あせることはありません」 だいきちくんの声「防空壕に逃げ込んだ、おばあちゃん、お母さん、お姉さん、妹二人を亡くしている。 お母さんのお腹の中には赤ちゃんもいたんだ…」 樋口さんインタビュー 樋口さん「今でも思い出します。 あの時はですね、母とおばあちゃんは顔から背中まで黒こげでしたが、 子どもたちはみんな顔はキレイに母とおばあちゃんにしがみついて顔を伏せていたもんで、顔はキレイにしてました」 樋口さんの家族写真 テロップ「母とおばあちゃんは顔から背中まで黒こげでした」 テロップ「父 母 祖母 姉 妹 妹 樋口泰助さん」 テロップ「子どもたちの 死に顔 はきれいでした」 だいきちくんの声「家族5人を一度に失った樋口さん。 でもそんな悲しみの中、やらなくてはならないことがあったんだ。 」 樋口さんインタビュー「遺体を父と二人で小学校、私は当時1年生だったから、そこの小学校の校庭に運んだんです。 この入口の扉は空襲で燃え残った当時の小学校のもの。 戦災があったことを忘れないように、保存されているんだ」 平和資料室 入口の扉 炭化した扉の縁 同、別テイクのクローズアップ 扉からパンダウンで内部 展示写真1 展示写真2 展示物 千人針 展示物 衣類 展示物 熱でゆがんだ瓶 だいきちくんの声「資料室の中には空襲後の福岡の写真や戦災の遺品が展示されている」 資料室に入ってくる女の子たち だいきちくんの声「子どもたちは、空襲の日の前後、この資料室を改めて見学するんだ。 みんなはどんなことを感じたんだろう。 」 ある写真に見入る男の子たち 子どもC「これ何右足ないぞ…」 テロップ「右足ないぞ」 女生徒インタビュー テロップ「6年生」 女生徒「足が一本無かったりとかして、とても怖いと思いました。 この写真なんですけど(片足の少女)、足が一本無くて一人で彷徨っている女の子なんですけど、 とても可哀そうだと思います。 みんなが仲良くして、戦争も争いもなく過ごせばいいと思います」 片足の女の子の写真 樹木と空 児童たちの登校風景(学校の門をくくる) テロップ「福岡市立飯倉小学校」 だいきちくんの声「空襲体験者からお話を聞く学校もあるんだよ」 防空頭巾姿で登場する鍋山徳子さん テロップ「鍋山徳子さん(75歳)」 だいきちくんの声「防空頭とモンペ姿で登場したのは鍋山徳子さん。 空襲の時は小学校2年生だったんだって」 鍋山さん 鍋山徳子さん「とてもね、今思い出してもイヤです。 (声を震わせ)とっても悲しい事があったんです。 」 話を聞く子どもたち 鍋山徳子さん「1945年、昭和20年6月19日、夜寝てました。 10時35分にね、ウーっという警戒警報が鳴って、間もなく、ウー!ウー!ウー!って早く逃げなさいというそういうような合図がある。 寝てた私を『とこちゃん、とこちゃん、早く起きて!』と言って起こされて・・・中庭の防空壕に入りました」 テロップ「警戒警報」 効果音「警戒警報」 真っ赤な色を背景にだいきちくん登場 だいきちくん「防空壕に逃げ込んだ鍋山さんだったけど、一歩外ではアメリカ軍の空襲で福岡の街は火の海のような状態になっていたんだ。 その時、外から叫び声が聞こえた!」 鍋山さん 鍋山徳子さん「すぐ出なさい!と言われて、防空壕から出たんですけど、真夜中ですよ. 真っ暗なね、夜なのに、昼間よりももっともっと明るい!真っ赤っかなね、」 話を聞く子どもたち 手のアップ 飛んできた火の粉が私たちの座ってた樅の木に移って、それが燃えて私の防空頭巾に落ちたんですよ…そしたらこれ燃えてたんですよ。 (被っていた防空頭巾を脱いで見せる)だから急いで踏み消しました。 (防空頭巾を踏む)で、ブルブルブルブル震えてたんですけど…」 福岡大空襲の焼跡写真1に炎が重なる テロップ「提供:福岡市市立博物館」 効果音「炎の燃え上がる音」 だいきちくんの声「火の海となった街を、鍋山さんたちは必死で逃げた。 そして恐怖の中で一夜を過ごした。 その時は10歳です。 その絵を指し示しながら解説する楠原さん 楠原博さん「夜ですね、ともかく真っ暗なんですよ。 これあの…今で言うとサーチライト、懐中電灯のものすごいでかいやつ。 それでね、敵機をですね、とらえているんですね。 」 テロップ「敵機(てっき)」 B29模型を手に持って 楠原博さん「これ!これね、B29と言いましてね…この爆弾の中に焼夷弾というのが…詰め込まれてるんですね。 」 真剣に耳を傾ける子どもたち 楠原博さん「爆撃と言いますか、焼夷弾攻撃を止むのを待ってたんです2時間後に敵機がいなくなりましたんでね。 ところがもうみんな火の海なんです」 子どもたちに向かい熱く話す楠原さん 当時の写真ズームイン 楠原博さん「長浜、天神、千代町、みんな焼けたんです。 焼け残ったのってないんですよ。 もうみんな、あの地帯は焼けたんですよ。 勿論、熱いんです。 わぁ自分も死ぬわいと。 ともかく水、水、水!って水を求めてね、 ちょっとでも水があれば飲みたいわけ。 渇きとかではなくて通り越してね、もうこの世の中から空気が無くなったかなぁと。 今で言うとね、酸素がなくなっているんですよ。 みんな燃えてしまったからね…」 テロップ「長浜、天神、千代町みんな焼けたんです」 テロップ「水 水 水!って水を求めてね」 テロップ「この世の中から空気が無くなったような」 お話する楠原さんから体育館前列に座っていた子どもたち(3年生)にカメラが動く 汗をかきながら、真剣な目で見つめる子どもたちの表情が映る 福岡大空襲の焼跡写真3を背景に、フラフラ歩くだいきちくん テロップ「提供:福岡市市立博物館」 だいきちくん「焼け野原となった福岡の街で水を求めてさまよう中、楠原さんは恐ろしい光景を目の当たりにしたんだ」 楠原博さん「…ようするに真っ黒い…で、骨にはなっていないのね。 人間だなぁというかっこうはわかるんですよ。 髪も燃えているし、真っ黒になっちるからわからないわけ、男か女かも。 ただ、大きいか小さいかで、子どもさんか大人かなと。 それをね、実際に見ましたよ…」 テロップ「人間だなぁとはわかるんですよ」 元警視庁カメラマンだった石川光陽氏の東京大空襲写真1が挿入される 写真1「炭のように真っ黒になったたくさんの遺体が無造作に並んでいる」 テロップ「イメージ」 テロップ「東京大空襲 撮影:石川光陽」 写真2「親子らしい黒焦げの遺体」 テロップ「東京大空襲 撮影:石川光陽」 切々と訴えかけるような楠原さんの表情 子どもたちが次々と映し出される 楠原博さん「…私みたいな年がね、もう80近くになってくるとね。 今皆様にお話ししとかないとね、もうあと5年か10年か、もう生きてるかどうかもわかりません。 だから生きてる間はですね、戦争はダメだよということをですね、訴えたいと思います」 大きな拍手をする子どもたち 終了後の子どもたちへインタビュー(楠原さんのお話の感想) 3年生(女子)「自分も小さい子だったら、すぐに私も亡くなっている…亡くなっちゃう感じかなぁ…」 テロップ「3年生」 テロップ「自分も小さい子だったら、すぐに私も亡くなっている」 6年生(女子)「私たちは当たり前のように学校に行ってるけど、その頃は…学校に行くなんて、学校に行って勉強することが当たり前ではないということに驚きました。 今度は私たちが今後の人たちに伝えていけるよう、戦争の悲惨さや、どれだけの被害があるのかとか、罪なき人たちがどれだけ苦しめられたのかを…伝えていきたいです」 テロップ「6年生」 テロップ「その頃は学校に行って勉強することが当たり前ではないということに驚きました」 テロップ「今度は私たちが今後の人たちに伝えていけるように」 テロップ「戦争の悲惨さや、どれだけの被害があるのか」 テロップ「罪なき人たちがどれだけ苦しめられたのかを伝えていきたいです」 校舎、校庭を背景にだいきちくん登場 だいきちくん「みんな、いろいろなことを感じたみたいだね。 満100歳でお亡くなりになったんだ…」 テロップ「平岡正三郎さん」 テロップ「平成25年3月死去」 終戦後の昭和20年11月に撮影「焼け跡となった鹿児島市内の写真」にだいきちくんが重なる カメラが引くとその写真を持ち、現在の桜島と見比べる平岡さんの後ろ姿 だいきちくんの声「戦争が終わって70年近く…当時を知っている人は年々少なくなっている。 でも…生前の平岡さんはこんな言葉を残しているんだ」 平成19年度「明日への伝言 ふるさと・平和への調べ」から平岡さんインタビュー抜き出し 平岡さん「いま撮っていかんな、誰も撮る人がいないという自負を持っていましたから、早く(シャッター)を1枚切っておけばいいんだ、撮っておけば(空襲後の鹿児島が)後世に残るだろう。 もう、それだけの とにかく撮るということだけですね…」 テロップ「平成19年度制作ビデオ『明日への伝言 ふるさと・平和への調べ』より」 テロップ「今撮っておかなければ誰も撮る人がいない 早く シャッターを 一枚切りさえすりゃいいんだ 撮っておけば 空襲後の鹿児島市が 後世に残るだろう…」 平岡さんの写真バックにだいきちくん テロップ「提供:鹿児島市 撮影:平岡正三郎」 平岡さんの撮った別テイクの焼跡写真を背景にだいきちくん登場 だいきちくん「平岡さんが決死の思いで撮影したお陰で、ぼくらは当時の鹿児島の様子を知ることができる。 空襲があった街には犠牲者のための慰霊碑があることや、空襲の日に合わせて追悼式が今でも開かれていることがわかったんだ」 鹿児島市主催の追悼式にテロップ 鹿児島 6月17日 鹿児島市の広馬場通りの慰霊祭にテロップ 鹿児島 6月18日 福岡市戦災引揚死没者追悼式にテロップ 福岡 6月19日 佐世保市の慰霊祭にテロップ 佐世保(長崎) 6月28日 延岡市の慰霊祭にテロップ 延岡(宮崎) 6月29日 熊本市の慰霊祭にテロップ 熊本 7月1日 大分市のムッちゃん平和祭にテロップ 大分 8月2日 鳥栖市の慰霊祭にテロップ 鳥栖(佐賀) 8月11日 福岡市博物館の外観 テロップ「福岡市博物館」 「戦争と私たちのくらし」展の模様 テロップ 「企画展『戦争と私たちの暮らし』」 企画展の展示物が映る 当時の戦局を伝える紙芝居 同、零戦とアメリカ軍の戦闘機の絵 だいきちくんの声「空襲、戦災について詳しく知りたい、調べたいお友達は、地域の資料館や博物館を訪ねてみるといいよ。 福岡市• 福岡市社会福祉協議会• 福岡市立博多小学校• 福岡市立飯倉小学校• 福岡市立三宅小学校• 樋口泰助• 鍋山徳子• 楠原博 総務省委託 企画・制作 株式会社NHKグローバルメディアサービス.

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鳥栖駅

鳥栖空襲

概要 [ ] 九州の交通の結節点的役割を果たしている鳥栖市の、鉄道における中心駅であり全列車が停車する。 当駅のである と、当駅を起点とするの2路線が乗り入れている。 このほかに長崎本線から分岐する、鹿児島本線から分岐するに直通する特急・普通列車も利用可能である。 鹿児島本線の普通列車の運行上の拠点駅の1つでもあり、方面から以北へ乗り入れる普通列車の大半が当駅で折り返す。 鹿児島本線はから当駅までがとなっている。 歴史 [ ] 昭和戦前期の鳥栖駅 1889年(明治22年)12月11日に、がと千歳川仮停車場の間を開通させた際に合わせて開設された、九州で最初の駅の一つである。 1891年(明治24年)8月20日には、現在のとなる路線がまで開通した。 1903年(明治36年)7月に、による工事によって鳥栖駅舎が移転新築され、1911年(明治44年)の増改築を経て、21世紀初頭まで使用され続けている。 1925年(大正14年)に鳥栖操車場が開設され、昭和30年代には42万平方メートルの敷地面積に約700人の職員が働き、には約50両の配置機関車がある、九州の貨物輸送の一大拠点となった。 この間、1945年(昭和20年)8月11日には構内に空襲を受けたが 、駅舎は残った。 1961年(昭和36年)には鹿児島本線が電化され、さらに発展することになった。 しかし、昭和40年代に入ると鉄道貨物は退潮となり、1984年(昭和59年)に鳥栖操車場は廃止となった。 (平成2年)以降は日本貨物鉄道(JR貨物)のコンテナホームが開設されていた。 隣の東側に1面1線、150メートルほどのホームがあったが、(平成18年)にの機能を統合し鳥栖貨物ターミナル駅に改称した。 1996年(平成8年)9月に、駅東側に隣接してが開設された際に、駅の東西を横断する自由通路「虹の橋」も開通した。 (平成22年)には、それまで自動車と歩行者とが入り乱れていた駅前周辺の再整備が進み、歩道が整備されたり信号が設置されたりするなど自動車・歩行者双方の安全性が向上した。 年表 [ ]• (22年) - 博多駅 - 千歳川駅間の開通と同時に開業。 (明治24年) - 九州鉄道が佐賀駅まで開通。 (明治36年)7月 - 駅舎新築• (明治40年) - 九州鉄道の国有化により、所管となる。 1911年(明治44年) - 駅舎増改築。 1925年(大正14年) - 鳥栖操車場開設。 (20年) - 鳥栖大空襲で駅構内に爆弾多数投下され被災。 駅舎は焼失を免れた。 (昭和59年) - 鳥栖操車場廃止。 (昭和61年) - の取扱を廃止。 (昭和62年) - により九州旅客鉄道・の駅となる。 (2年) - コンテナ貨物の取扱を開始。 (平成8年)8月 - 東西自由通路「虹の橋」開通。 (平成18年) - 日本貨物鉄道の駅が移転廃止、開業。 (平成21年) - ICカードの利用を開始。 (平成22年) - 駅前広場および駅前バス停周辺の整備工事が完了。 (平成27年)12月15日 - 鳥栖駅周辺まちづくり検討委員会で、橋上駅舎化の答申が出される。 駅構造 [ ] ホーム、駅舎(西)側() 3面6線を持つ。 ホームに接する本線のほかにもある。 駅舎とホーム間はホーム両端に設けられた2本の地下通路でつながっている。 駅舎は駅西側にのみある。 (明治36年)に完成した2代目のもので 、時代に建築された大規模駅舎である。 ホームの屋根を支える鉄柱はに製造されたレールを利用し建築されている。 ホームと地下通路を昇降するエレベーターが設置されている。 JR九州のであり、・が設置されている。 が導入されている。 駅舎内にのうどんコーナー(後述)と鳥栖駅店(オフィシャルショップ併設)が設けられている。 のりば [ ] 以下の乗り場表記は日中の基本的なパターンを示したもので、運用が複雑なことから朝晩を中心に例外が存在する。 のりば 路線 方向 行先 備考 1・2 JB 鹿児島本線 上り ・・方面 主に1番から発車 2 下り ・・・方面 当駅始発の・ 3 上り 二日市・博多方面 主に JH 長崎本線 - ・・・・方面 当駅始発の普通列車 一部の列車は2・4・6番から発車 4 JB 鹿児島本線 上り 二日市・博多・小倉方面 当駅始発の・区間快速・普通列車 下り 久留米・大牟田方面 一部の快速・区間快速・普通列車 5 JH 長崎本線 - 佐賀・長崎・・方面 特急「」・「」・「」 5・6 JB 鹿児島本線 下り 久留米・大牟田・熊本方面 主に6番から発車 ・・方面 特急「」・「」 備考• 上り特急「」・「」・「」・「」・「」・「」 は1・2・3番のりばのいずれかから発車する。 鹿児島本線久留米駅方面と長崎本線を跨いで運行する列車は当駅でを行う。 2013年11月現在定期列車では該当する列車はないが、熊本駅方面からの向けの団体専用列車や、1泊2日コースでの「」がスイッチバックを行っている。 5番線のホームの柱は下り方から青・赤・緑の3色に塗られている。 これは塗られた当時、肥前山口駅・早岐駅で分割を行う「かもめ・みどり・ハウステンボス」の3階建て列車が運行されていたためで、青が「かもめ」、赤が「ハウステンボス」、緑が「みどり」に対応していた。 駅弁・立ち食い店 [ ] かしわめし が構内での駅弁の販売と立ち食いうどん店の運営を行っており、駅ホームのうどん店と改札内外の売店で駅弁が販売されている。 「焼麦(しゃおまい)」と呼ばれると、で知られる。 主な駅弁は下記の通り。 焼麦(しゃおまい)弁当• 花つくし• 肥前路弁当• あさりめし• 長崎街道焼麦弁当• 牛めし 当駅のうどん店は、駅構内にある立ち食いうどんとしては九州で最も長い歴史を持つものであり、現在も「」で知られる。 改札口横、1・2番ホーム、3・4番ホーム、5・6番ホームの計4箇所に店があるが、なぜか5・6番ホームにある店舗が最もうまいという評判が昔からあり、わざわざ入場券を買って食べる人もいるという。 なお、構内の店舗により営業時間や取り扱う駅弁の種類が違う場合があるため注意が必要である。 利用状況 [ ] (平成30年)度の1日平均は 7,162人である。 これは佐賀県内ではに次いで第2位であり、JR九州の駅としてはに次いで第25位である。 近年の推移は下表のとおりである。 年度別1日平均乗降・乗車人員 年度 1日平均 乗降人員 1日平均 乗車人員 1998年(平成10年) 12,980 6,430 1999年(平成11年) 13,210 6,515 2000年(平成12年) 13,224 6,534 2001年(平成13年) 13,001 6,429 2002年(平成14年) 12,957 6,419 2003年(平成15年) 13,003 6,450 2004年(平成16年) 12,906 6,409 2005年(平成17年) 13,061 6,482 2006年(平成18年) 13,228 6,569 2007年(平成19年) 13,461 6,685 2008年(平成20年) 13,675 6,791 2009年(平成21年) 13,442 6,672 2010年(平成22年) 13,473 6,696 2011年(平成23年) 13,424 6,682 2012年(平成24年) 13,550 6,748 2013年(平成25年) 14,003 6,980 2014年(平成26年) 13,741 6,840 2015年(平成27年) 14,203 7,069 2016年(平成28年) 14,145 7,039 2017年(平成29年) 7,145 2018年(平成30年) 7,162 駅周辺 [ ] 鳥栖市中心市街地の東側に位置している。 鳥栖市役所は当駅の約1. 2km西側の沿いに位置する。 前述の通り駅舎・改札は駅西側にしか設けられておらず、東西の行き来は駅ホーム北端を跨ぐように設けられた自由通路「虹の橋」を使用する。 駅東側には、(268号機)が静態保存されている。 かつて鳥栖市役所に保存されていたものが移設された。 駅西側• - 複合商業施設。 核テナントは鳥栖店。 本通筋商店街• 鳥栖駅前• 駅東側• - ・の本拠地。 サンメッセ鳥栖(鳥栖市定住・交流センター)• 本社 バス路線 [ ] 鳥栖駅前バス停から発車する西鉄バス佐賀車両 すべて駅西口の「鳥栖駅前」バス停を発着する。 10:西鉄鳥栖• - いずれも起終点はフレスポ鳥栖• 鳥栖地区循環線• 田代地区循環線• 基里地区循環線(始発便のみ) 再開発計画 [ ] 鳥栖駅周辺は鉄道で東西が分断されており、特に市中心部から離れた駅西側の活性化が検討されてきたが、2002年(平成14年)に鳥栖駅西側土地区画整理事業計画を策定するも翌年に事業断念 、さらには佐賀県が主体となって駅周辺のの検討も行われたが2006年(平成18年)に白紙撤回されており 、長年の懸案事項となっていた。 こうした経緯を経て、2015年2月に行われた鳥栖市長選挙で「鳥栖駅の化」「鳥栖駅東口の開設」を公約に掲げたが当選 、市役所内に「鳥栖駅周辺整備推進本部」を設置し、「鳥栖駅周辺まちづくり検討委員会」を設けて検討を行っている。 委員会では「周辺を含めた連続立体交差」「鳥栖駅周辺のみの連続立体交差」「鳥栖駅の橋上駅化と道路跨線橋の設置」「鳥栖駅東口設置と道路跨線橋の設置」の4案を比較。 連続立体交差事業は430億から590億円程度の工費が見込まれ、効果を発揮するまで30年程度の時間がかかるとして否定し、また東口を設置する案も「駅を中心に新しいまちの顔をつくる戦略との整合性が弱い」とした 上で、「鳥栖駅の橋上駅化と道路跨線橋の設置」案を推薦した。 この案では総工費は230億円程度で、このうち122億円が県と市の負担となる。 この橋上化に伴い、築110年を経過した従来の駅舎は取り壊しとなる計画であったが、文化財としての価値を検討してきた鳥栖市文化財保護審議会では、文化財的な価値の高い駅舎であり、現地で保存するべきであるとする答申をまとめている。 2017年10月、鳥栖市は橋上駅化と新自由通路を建設する計画をもとに、JR九州と包括連携協定を提携。 2018年11月28日、市は鳥栖駅周辺整備事業の基本設計の概要を発表。 ところが約124億円に上る総事業費の負担が大きいとして、同年12月3日の市議会全員協議会で撤回を表明した。 駅東側の市民らが「橋上改札口」を先行して新設するように求めた計画案を提出するが、2019年9月9日、市長は市議会一般質問で「効果が限定的で難しい」と述べ、採用しない考えを明らかにした。 その他 [ ]• かつて「みずほ」「明星・あかつき」「・はやぶさ」など当駅で分割・併合を行う寝台特急列車が存在したが、(平成20年)の「・」の廃止を最後にすべて消滅した。 が高校卒業後に半年間の見習期間に働いていたことがある。 その後に配属された。 父親は当駅の駅長を経験している。 駅近くに社長のの生家があったが現存しない。 ギャラリー [ ]• 駅裏に保存される268号蒸気機関車 隣の駅 [ ] 九州旅客鉄道(JR九州) JB 鹿児島本線• 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年• 朝日新聞デジタル. 2016年10月19日閲覧。 117. , p. , p. 181. : p. 2009年3月3日• 2016年10月19日閲覧。 『JR時刻表』2017年3月号、、2017年、 398頁。 - 中央軒公式サイト内• 九州旅客鉄道 2019年7月. 2019年7月24日閲覧。 佐賀新聞. 2015年2月24日. 2015年12月3日閲覧。 , p. 西日本新聞. 2018年12月4日. 2019年10月3日閲覧。 佐賀新聞. 2019年9月10日. 2019年10月3日閲覧。 参考文献 [ ]• 『九州の鉄道100年記念誌 鉄輪の轟き』九州鉄道百年祭実行委員会・百年史編纂部会、九州旅客鉄道、1988年、初版(日本語)。 鳥栖市 2016年3月. 2017年3月18日閲覧。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (駅情報) - 九州旅客鉄道• - (佐賀新聞社提供、2020年2月5日公開).

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