あえ くに 神社。 伊和神社

全国にある!一ノ宮神社の一覧表

あえ くに 神社

ご創建は、第13代成務天皇の御代。 勅命により、比止禰命(ひとねのみこと)が安積国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられ、当時未開の地であったこの地を開き、治めました。 社稷(しゃしょく)の神として、安積国造神社がお祭りされ、それ以来、祭祀が継承され今に至ります。 もともとお祭りされている神様は、和久産巣日神、天湯津彦命、比止禰命の3神です。 その後、坂上田村麻呂将軍が国造神社に詣でて八幡大神を合祀されました。 「八幡様」と称え奉られているのもそのためです。 江戸時代には中世の領主安積伊東氏がお祭りしていた稲荷大神も合祀されました。 当神社の宮司家は比止禰命の子孫でありまして現在64代を数えます。 江戸時代、最高学府の昌平坂学問所教授となった大儒安積艮斎先生は、第55代宮司安藤親重の三男です。 冒頭に掲げました銘は、鳥取支藩の大名松平定常侯に戴いたことばです。 定常侯と艮斎先生は、同じ佐藤一斎の門下生というつながりがありました。 そのため、大名から銘をいただくことができたのです。 拝殿は文化7年に再建され、戊辰戦争や大東亜戦争の戦火をくぐりぬけて今に至ります。 郡山の市街地において唯一の、江戸の木造建築です。 境内には、安積艮斎先生の銅像や、撰文の碑などがあります。 神社会館(参集施設)の4階には安積艮斎記念館を設置しております。 また、神社の西方には安積幼稚園を配し、こころを育てることに重きをおいて、子どもたちを教育しております。 大神様のご神徳があまねく行き渡りますことを念じ、日々、神明奉仕しております。 皆様方のご参詣をお待ちしております。 Copyright C asakakunituko-jinja 2000-2001. All rights reserved.

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敢國神社について

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祭神 [ ] 祭神は次の3柱。 主祭神• (おおひこのみこと) 第8代第一皇子。 『』によると、の1人として北陸道へ派遣されたという。 (すくなひこなのみこと) - 右座。 (かなやまひめのみこと) - 左座。 祭神について [ ] 『』の記載に見えるように元々の祭神は1座で、に「敢国津神」とあるように「敢(あえ:旧一帯)の」が本来の祭神であったと見られている。 に入ると、この神に人格神として金山比咩命または金山比古命をあてる説と、にあてる説とが生じた。 金山比咩命をあてる説は、南宮山に対する信仰に基づくと見られ、古くは末期の『』や『延喜式神名帳頭註』に記載が見える。 一宮の()との関連伝承を記す文献もあるが、その傍証は欠いており詳らかではない。 一方、少彦名命は開拓神として知られる神で、『』に「伊賀国にはおさなきちごの宮」と見えることから、末期には少彦名命説が確立したと見られている。 以後、室町時代末期からの間は、金山比咩命・少彦名命の2神説、またはこれらにを加える3神説が定着していた。 江戸時代の3年()になると、度会延経が『』において大彦命を祭神とする説を唱えた。 この説は、『』紀や『』阿閇臣条に大彦命が阿閇氏祖として記されることに基づく。 後にこの大彦命説が取り入れられて甲賀三郎は廃され、以降は大彦命・少彦名命・金山比咩命の3神説が定着し現在に至っている。 歴史 [ ] 創建 [ ] 社伝 では、4年()の創建になるとする。 また、それとは別に少彦名命を祀る一族があり、これら2柱をもって創建されたとする。 創建当初は、敢國神社南方の南宮山山頂付近に祀られたが、後に現在地(南宮山山麓)に遷されたという。 その後、山頂附近の社殿跡にはより勧請された金山比咩命が祀られたため、その山が「南宮山」と呼ばれたともいう。 そして2年()、金山比咩命の社殿前の神木に言葉が現れたことにより、金山比咩命を敢國神社に合祀したとしている。 実際の古代祭祀については、南宮山が円錐形を成す典型的なであることから、この南宮山に対する原始信仰に始まったと見られる。 特に敢國神社南方200メートル付近に大岩(「黒岩」とも)が存在したことから、これをとして南宮山を遥拝する形の祭祀が行われたものと推測されている。 この大岩は現在は失われているが、付近には大岩古墳があり、の祭祀の存在が指摘される。 同地にはかつて大石明神(大岩明神)が祀られ、これがかつての祭祀の根本であったと見られるが、同社は現在は敢國神社境内に遷され「大石社」として祀られている。 概史 [ ] に見える記事では、『』3年()条において従五位下のを授かったと見える伊賀国の「津神」を敢國神社に比定する説がある。 一方、『』6年()条において従五位下を授かったとある伊賀国の「安部神」に比定する説もある。 その後『日本三代実録』や『』によると、「敢国津神」または「敢国津大社神」の神階が貞観9年()に従五位上、貞観15年()に正五位下、3年()に正五位上に昇叙されている。 5年()成立の『』ではに「敢国神社 大」と記載され、に列している。 大社に列したのは伊賀国で敢國神社が唯一になる。 『伊賀名所記』(末期頃成立)によれば、2年()に正一位に叙せられたという。 また『』に「一宮南宮大菩薩」と見えるのを初見とし、以後は伊賀国においての位置づけにあったとされ 、この頃より「南宮」とする呼称も見られる。 以降は諏訪信仰が流入して譚も広がり、敢國神社の祭祀の中心をなした。 9年()のでは、の侵攻に伴って社殿を焼失し、この時に多くの社記も失われている。 この荒廃を受け、2年()にの小天狗清蔵によって社殿が再建された。 小天狗清蔵は3年()に湯釜(伊賀市指定有形文化財)も寄進している。 に入りが伊賀に入国した後は、藩主によりのとして崇敬をうけ、慶長14年()に本殿が再興された。 次いで鐘撞堂も建立され、慶長17年()には社領として107. 4石が寄進されている。 この頃の神主は、東氏・南氏・中西氏が担っていた。 後、4年()5月ににおいてに列した。 戦後はのに列している。 神階 [ ]• 3年()6月4日、従五位下? (『』) - 表記は「津神」。 6年()10月15日、正六位上から従五位下? (『』) - 表記は「安部神」。 貞観9年()10月5日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「敢国津神」。 貞観15年()9月27日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「敢国津大社神」。 3年()4月28日、正五位下から正五位上 (『』) - 表記は「敢国津大社神」。 境内 [ ]• 敢國神社で年間に行われる祭事の一覧。 月次祭 (毎月1日)• 歳旦祭 (1月1日)• 獅子神楽舞初式 (1月3日)• 崇敬者初祈願祭 (1月11日)• 厄除祈願祭 (2月3日)• 紀元祭 (2月11日)• 祈年祭 (2月17日)• 大石社祈年祭 (2月17日)• 春季大祭 (4月17日)• 獅子神楽舞上祭 (4月17日)• 大石社春祭 (4月24日)• 一宮地区交通安全祈願祭 (4月24日)• 結社例祭 (6月第4日曜日)• 大祓式 (6月30日)• 大石社祇園祭 (7月28日)• 茅の輪神事 (8月1日)• 一宮地区敬老祭 (9月第1日曜日)• 神社関係功労物故者慰霊祭 (9月21日)• 10月• 講社大祭 (10月10日に近い日曜日)• 11月• 新嘗祭 (11月23日)• 黒党祭 (11月25日)• 12月• 浅間社例祭 (12月1日)• 神幸式 (12月4日)• 例祭 (12月5日)• 天長祭 (12月23日)• 除夜祭 (12月31日)• 大祓式 (12月30日)• 満月祭 (望の日) 敢國神社の祭では特に、獅子神楽舞初式(1月3日)、獅子神楽舞上祭(4月17日)、例祭(12月5日)において獅子神楽が奉納される。 この神楽は年間(-)の起源になるといわれる。 伊賀各地の獅子神楽の原型になるものとされ、三重県指定無形民俗文化財に指定されている。 文化財 [ ] 三重県指定文化財 [ ]• 有形文化財• 三十六歌仙扁額 12面(36図)(絵画) を3枚1組で計12面の扁額に収めた歌仙画。 『公室年譜略』慶長14年()条記事に見えるものとされるが、同記事で作者と見える「山徳」はの誤りと見られる。 色紙はの筆。 平成17年3月17日指定。 無形民俗文化財• 敢国神社の獅子舞 - 昭和29年4月1日指定。 伊賀市指定文化財 [ ]• 有形文化財• 湯釜 2個(工芸品) - 3年()奉納。 昭和33年11月22日指定。 関係地 [ ]• (21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)。 76-77. (公式サイト)。 (三重県教育委員会)。 (三重県教育委員会)。 参考文献 [ ]• 神社由緒書「伊賀一宮 敢國神社」• 百科事典• 「敢国神社」『 24 三重県の地名』、1983年。 「敢国神社」『 24 三重県』、1983年。 その他書籍• 森川桜男「敢国神社」『日本の神々 -神社と聖地- 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』編、、1986年。 久保田收「敢國神社」『式内社調査報告 第6巻』式内社研究会編、出版部、1990年。 『中世諸国一宮制の基礎的研究』中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年。 関連文献 [ ]• 『』 神宮司庁編、敢國神社項。 (国立国会図書館デジタルコレクション)168-171コマ参照。 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』社、1968年、1頁• ・土岐昌訓編集『神社辞典』、1979年、3頁 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 公式サイト• - 21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」.

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日前神宮・國懸神宮

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國懸神宮 主祭神• 國懸大神 (くにかかすのおおかみ) (ひぼこのかがみ)を神体とする。 相殿神• (たまのやのみこと)• (あけたつあめのみかげのみこと)• (うづめのみこと) 神体の鏡について [ ] 神体の鏡はいずれものであると同等のものとされる。 八咫鏡は伊勢神宮での神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準の扱いをうけていた。 日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。 また、がへの東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。 神階について [ ] 日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷はを贈らない別格の社として尊崇した。 神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。 なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。 歴史 [ ] 日本で最も歴史のある神社の一つで、と関わりが深い。 『』に、天照大神がした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。 社伝によれば、の後の2年、()のである(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。 当初は毛見郷浜宮に祀られ、16年に現在地にしたと伝えられている。 なお、伊太祁曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。 また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地にはが鎮座している。 元年()には國懸神にしたとの記事がある。 『』ではに列し、紀伊国一宮とされた。 中世には、の途中で参拝されたとの記録がある。 13年()にに攻め込まれ、が没収された。 その際社殿が取り壊され境内が荒廃したが、に初代により社殿が再興された。 しかし現在は最盛期の5分の1の広さになっており、社殿や施設などは往時を忍ぶに及ばない。 さらに(8年)には国費による改善工事によって境内の建物はすべて一新されており、旧観は大きく変化している。 (大正15年)3月の工事完成をもって現在の左右対称の姿となった。 (4年)、において両宮ともにに列せられた。 現在はなどの包括宗教法人に属さないとなっている。 摂末社 [ ] 摂社 [ ]• 天道根神社 - 祭神:• 中言社 - 祭神:、• 松尾神社 主な祭事 [ ]• 節分祭・お焚き上げ祭(古神札焼納祭)(2月3日)• 御鎮座祭(4月8日)• 日前宮(7月26日)• 例大祭 (9月26日) 現地情報 [ ] 所在地• 秋月365 交通アクセス 鉄道• 最寄駅: (徒歩1分)• ほか・和歌山電鐵貴志川線 (徒歩20分) バス• で「日前宮前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ) 関連図書 [ ]• ・土岐昌訓編集『神社辞典』、1979年、289-290頁• 上山春平他『日本「神社」総覧』、1992年、232-233頁• 『日本の神社を知る「事典」』、1994年、192頁 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• 、(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)•

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