タナトス エロス。 デストルドー

エロスとは

タナトス エロス

エロスとは「生」。 「生へ向かう衝動」を意味する。 タナトスとは「死」。 「死へ向かう衝動」や「破壊的本能」を意味する。 このエロスとタナトスは表裏一体の存在であり、 エロスの裏側には必ずタナトスがある。 陰陽といっても良い。 陰陽道とは、生と死の道とも言えるし、 陰陽師とは、生と死を司る者と言えるだろう。 いわゆる陰の気の満ちた場所を祓う場合は、 陰陽を調和させる意味で陽の気を満たすようにするものだ。 場合によっては、性交を為して陽の気を満たす時もある。 性とは生であり、聖であり、正だからだ。 とは言え、実際は性行為を模して概念的儀式を行う。 西洋魔術の剣と杯の儀式。 密教の智拳印。 陰陽合致の様々な儀式の根本は性交だ。 陰陽とはどこまでもそれである。 西洋的キリスト教的倫理観で、性を罪悪視する必要は無い。 密教では、一切の性行為は本来清らかで菩薩の位であると教えている。 肉体の交わりと魂の交わり。 二つは別次元ではあるが、同時に行われる。 高位になればなるほど、魂の交わりに重点が置かれる。 いわゆる神交法だ。 陰陽を超えるにはこれしかない。 十五年以上前のブログより転載).

次の

東京の心理カウンセリング(神田 神保町)

タナトス エロス

歌を聴いて、小説読んで、歌詞を考察し、改めて聴く。 正直このエンターテインメントは計り知れない感動を呼ぶ。 それだけに、この歌詞は鵜呑みにしそうな表現が多く、解釈する人によって最悪のケースは自殺教唆になりうる事もある。 あまりにも美しく、華麗に死が描かれている為に、自殺はこの主人公達にとってハッピーエンドと解釈されがちである。 しかし、現実にこれは当てはまらない。 あくまで「小説」である。 エロスとタナトスがまるで別々に存在し、生に執着するもの、死に執着するものとして2人は描かれている。 そしてタナトスとは見るものにとって理想の形をしている。 しかし実際にはエロスとタナトスは混在し、エロスとして扱われてる彼にとっての自殺はタナトスからの甘い誘惑であった。 彼はブラック企業に勤めており、ストレスによって… そこの細かい描写がない事がこの作品の魅力であることは間違いない。 もちろん物語の解釈は無限にあっていい。 だが、美しく残酷な物語は狂信的な自殺志願者に加担するものにはなってほしくないと願うばかり。

次の

生と死について12「エロスはタナトスで、タナトスはエロスだ」

タナトス エロス

第一次大戦の悲惨な体験は、「野蛮さを克服した文明人」というヨーロッパ人の誇りを打ち砕いた。 フロイトもまた大戦に大きな衝撃を受けたが、彼のその経験は精神分析の理論を深化させた。 「快感原則の彼岸」 1920 に登場した「死の欲動Todestriebe」という概念は、彼の弟子たちにもよく理解されなかった問題概念であるが、本書に収録された「戦争と死に関する時評」 1915 「喪とメランコリー」 1917 「人はなぜ戦争をするのか」 1932 等を読むと、フロイトが大戦をきっかけに死を深く考えたことが分かる。 戦争は、家族や同国人など「愛する人々」だけでなく、敵兵という「憎むべき人々」の大量の死を体験させる。 つまり、愛・憎しみ・死を一体のものとして経験させるのが戦争なのだ。 フロイトは、愛と憎しみの両面をもつ「他者の死」を、自我の構造に内面化する。 一つは、愛する者は私の所有物すなわち私の一部であるから、私の中で他者は生きているという、死を認めない気持ち。 もう一つは、愛する他者といえども私の自由にならない絶対的なよそよそしさ=敵対性があり、その憎しみの契機ゆえに私は、彼/彼女の死を認め、望みさえする。 「現代人は無意識のうちに愛する者の死を強く望んでいる」 p93 という驚くべき逆説。 愛には必ず憎しみが含まれるというフロイトの洞察は、メラニー・クラインの登場を予感させる。 彼は重い口を開いて話し始めた。 突然ですが、われわれ人類共通のご先祖様はみな殺人者なのです。 だから祖国共通の愛を引き継いだ人類に、何か一つ共通する才能があるとすれば、それは人を殺す才能なのでした。 人間性とは罪深き物なのか。 原始人が息子達に植えつけた最初のトラウマとは暴力 道徳 の事なのだと、われわれは再認識する事になる。 文化人類学の発展が、人間の生の欲動に押し込められた底深い本性を、数多くのデータを持って徐々にあらわに解明してゆく。 第一次世界大戦を反省から国際連盟を創設した自称平和主義者たちは「人類は自滅するのかもしれない」と言う直感に目覚めたに違いなかった。 もとより、原始人が手本としてきた崇高な道徳倫理は、人が存在する前からあった"自然"であり 生きるために自然物との同一化を試みる「愛 エロス 」と、暴力 道徳 を拒絶して分裂を試みる「憎 タナトス 」との アンビヴァレンツな欲動の二元論が、生命の根源的な倫理を突き動かしているのだと彼らは確信に至ったのである。 生殖細胞の中にまで善悪の文化的な慣習を持ち込むことが出来ない以上、現代社会に至っては、何もかも機械に手本をゆだねた方が自我の文化適正はずっと高いのであった。 いずれ機械文化に欲動をコントロールされた人類は大自然との和解をもたらすのだろうか わたしは彼の著書をどれも涙なしに幻想に浸ることは出来ない。 人間にある死の欲動とは? 人格を形成する「超自我」「エス」とは?……シリーズ第2弾の本書は、フロイト後期の精神分析理論 メタ心理学 を紹介しており、第一次大戦以降、理論改造しながら心の深層に鋭いメスを入れ続けた〈フロイト・ワールド〉の一端に触れることができる。 収録しているのは、彼が研究生活の後半に発表した書簡や論文など5編。 表題の「人はなぜ戦争をするのか」は、晩年の1932年にアインシュタインと交した公開の往復書簡。 この中でフロイトは、人間には生を望む欲動とともに、自らの死を望む欲動 タナトス が存在するとした「欲動論」を要約。 死の欲動は外部に向けられると破壊欲動になることなどを指摘、「人間の攻撃的な傾向を廃絶しようとしても、それが実現できる見込みはない」と、悲観的な見解を示したうえで戦争防止に向け独自の提案をする。 この欲動論は最後の「不安と欲動の生」 1933年 で、不安の考察を進めながら詳述されている。 また、「心的な人格の解明」 同前 では、人の心をひとつの装置と捉えた「心的装置論」をわかりやすく解説。 これは精神分析にとって大きな方向転換であり、後に発達する自我心理学の出発点になった理論だ。 このほか、「戦争と死に関する時評」 1915年 において、第一次大戦による道徳の崩壊を欲動論と死の問題、両面から検討。 「喪とメランコリー」 1917年 では、愛する者の死に対する人間の反応を分析、それが病へと移行するプロセスを究明している。 全体を通じ、第一次大戦を境に精神分析体系の変革を試みたフロイトは、より心の奥深くへと探求の錨を下ろし、理論を深化させていったことがわかる。 中でも「生」と「死」の二元的な欲動を追究した欲動論は、彼が最晩年に確信を抱くまでになったというだけに興味深い。 かなり専門的な内容だが、訳者が紙幅を割き丁寧な解説をしているので、これからフロイトを学んでみようという人も比較的スムースに入っていけよう。

次の