もうひとつの雨宿り 意味。 靴下の穴の向こうにあるものタトゥーの向こうにあるもの

雨宿り―Side B―

もうひとつの雨宿り 意味

赤ら顔を気にしてのスキンケアとして薬用メンズビオレを使ってみて、2週間ほどで赤みは引きました。 エアコンの掃除とか部屋に溜まった古雑誌の片付けによるホコリの除去も聞いているとは思います。 そうして赤みの原因が脂っこいものの食べ過ぎかもと思って買ってきて冷蔵庫に入っている烏龍茶をダメ押しで続けてみることにしました。 若い頃飲んでたのを意識しての。 もうひとつどうでもいい話をすると南の蔵に野良猫が入ることは良くあって、放置していると雨宿りとか寝床にしているのか、半ば住んでいて蔵の近くに行くとササッと出てきて逃げるのですが、年に1回くらい別の野良猫になっているようで、今年の猫ちゃんはササッと逃げるでなく中距離戦で退治して「シャー!」と睨むので怖いです。 怖いので「コラッ!」と脅すと下がるけど、まだこっち見てる。 地面を蹴ってみたり、手で追い払う仕草をしたりしてどこかの路地に入って見えなくなるまで追いかけます。 さあ、何の話か。 そうそう2だ。 俺はもガイルも使うんですけど、の博打昇竜はけっこう冴えていて、定評があるのですが、ガイルの博打サマーはダメです。 この原因を最近突き止めようとしていて、博打昇竜は打とうと思ってからコマンドを入れるので、必然的に入力が終わるのが打つと決めてから3フレーム後なんですよね。 だけどタメておいてサマーは1フレで出ちゃう。 打とうとするタイミングは経験則から来ていて同じのはずなんだけど、対戦だと起き上がりとか読み合いポイントで一旦手を止めてから、何も来ないと踏んで投げや打撃に行くところを昇竜で狩る。 この感じがサマーだと一旦手を止めて相手がまだ待っている時にしびれを切らせてサマーを先に打っちゃう感じになっちゃってる。 これ、対戦でなくコンピュータでもウロウロしているシーケンスに博打サマーを打ったらピタッと止まって、待っていたら打撃や投げに来る。 打撃や投げが開始してから当たるまでに速い技で3フレームくらいなので、相手が出すドンピシャのタイミングを見切れたら、通常シーケンスでサマー打ったらピタッと止まってじっとしてたら打撃に来るコンピュータ相手でも待ってサマーで全部攻略出来ちゃうんですよね。 論理的には、そうだろうと誰でも分かることを体現できるまで本当に実践していく中でまた別の気付きがあったりするんですよ。 俺はの大枠はなりなりの飛び道具を打つか打たざるかの半丁博打の繰り返しだと考えているんですよね。 だから遠距離では飛び道具持っている方が主導権を持っている。 けど、弾を打たずにジャンプを待っている間にその場で待たずに歩いて近寄ると、離すために弾で対処するとなると歩いている側に打つタイミングが読まれてしまう。 そうならないたけに足払い戦のシーケンスに遷移するんですよ。 手の長いやガイルの中足払いもの大足払いより長いので、ガイルでは追い払ってまた飛び道具って思考になるんですけど、に関してはリーチが短いので弾で勝ち切るのが正解です。 だけど、今まで通ってきた道としてはで近寄って勝つの経験値もあって、それをガイルで同じことが出来るようになったらガイルがもうワンランク強くなるかもというのが近ごろの取り組み。 ガイルではなくのナッシュで俺が自分より強いと思っているナッシュがいて、同キャラ戦での直接対決では俺が勝っているんですけど、対Vにおいて近距離でのバクチサマーでの切り返しが最高に上手いんですよね。 バクチなので読まれてアッサリ負けることもあろうかと思うと安定志向の俺のプレイスタイルとは合わないと一時は否定したんですけど、両者バクチを打たないという不文律があるわけでなく、お互いバクチありなら自分の安定も相手の博打で覆ることも有り得る訳で、それなら機先を制してバクチを自分から取り入れちゃおうと。 その結論を簡単にすると、もっとギリギリまで引き付けてサマー。 3フレで出る攻撃と同時にサマーでなく、3フレの打撃なら3フレ目で体に当たる瞬間にサマー。 そうすると、当たっていればサマソが決まるし、待たれていたらとどまることが出来るし、最悪サマーを引き付けすぎて相手の打撃が触れた時、サマソ空振りしてコンボ食らうでなく、相手が出そうとした牽制技の1発で済む。 差がついているのって、そういう細かい所の分解能がいい加減で雑なのか、丁寧でひとコマづつ理にかなっているかみたいなとこかなと。 昔から分かっているし、考えても当たり前のように思えるけど、実は反対に以前は攻め勝とうとしていたので大枠で間違っていて、待ち勝とうとしてから全てを論理反転させて結局バクチを当てるしか無いという論理の袋小路に来たところで、ムキになってやっていた頃の最後の手段のバクチ昇竜をガイルサマーにもっと丁寧に引き継げたらと思って取り組むと、そこに昔の目標だったナッシュのバクチサマーをピッタリとトレースするように放てる自分がいたんですね。 たかがバクチサマー。 されどバクチサマー。 それが場末にも三分の理ってもんです。 その理屈を体現できるようになると「極めたらPグルが最強」って論理に俺はもともと懐疑的というか、分からない訳でなくそうだろうと誰しもが思うところを実践してみて体現できた人がまだいない。 巷の対戦でPグルで勝つならともかく全国大会をPで制した人はまだいないという論にいちど落ちていたんですね。 それがバクチサマーを極めると、はそれより安全圏で駆け引きできるわけだから、まだ伸びしろはあるかなと思うんですけど、その前に現況で優勝回数が最も多いAのを自分のものにして自身でAとPを同じレベルでやり比べてみないと他人の判断や結果だけでは納得しきれない部分もあって。 ただし、Pグルが最強は誰もがいちどは考えることで当たり前すぎるからそれが出来るレベルのプレイヤーが全国大会とかを遠慮しているのかも知れないなって考えもあるんですよね。 反対に全国レベルのプレイヤーがゲーセンで勝ちすぎるのを遠慮している可能性もあって。 最高に上手い人がガチりあったらどうなるか。 何も出さないでばっかり狙うPグルと逃げてゲージ貯めるAグルの。 APでなくAKでそういう試合何度も見た気がするけど。 相手がPなら前転に弱いもしたりするだろうけどナー。 まあ、どうしても自分だけで出せる答えより上手い人同士で出した答えをもらうだけでは納得しきれないことはあっても、やればやるほどなるほどなって今Aベガやってんですけど。 結局の所、プレイヤが人間だから論理よりもデジタル対フィジカルでアスリート的な論理の体現者に誰がどうしてなるかって問題があって、近年ではそれに報酬が与えられてプロゲーマー制が成り立っているんですよね。 そういう意味でカネでももらえないなら「極めたら最強」と言っても誰が何のために無意味なゲームを極めんの?って話に逆戻りで、暇人が暇潰すために極めたのはの方だったってところが現況だと考えてるんですよね。 まあ、素人考えに極められてずらしポイントとか分からずに「コンッ」とブロられてコンボ入れられるのとゲージ溜めている間に何発かダメージ与えてから大ダメージので逆転されるのでは的な出玉感で相手のほうが遊べるってのも分かる筋ではあるんですけど。 karmen.

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新海誠監督インタビュー 「万葉集」と“雨”の歌から生まれた、「これは雨宿りの映画」(2013年5月31日)|ウーマンエキサイト(2/6)

もうひとつの雨宿り 意味

登山において、落雷から身を守る方法は2つしかありません。 ひとつは山小屋の中に避難すること、もうひとつは 雷の発生する可能性のあるときには登らないことです。 attention! 君子危うきに近寄らず ・山小屋の中に避難 落雷に遭遇したときに最も安全なのは、建物に避難することです。 しかし、現実的には必ずしもうまく逃げ込めるとは限りません。 雷雲は発生から発雷までわずか15分程度の短い時間で成長します。 15分といっても、それは雷雲の発生にすぐに気付いたらという前提ですから、実際には雷雲を認知してから山小屋に逃げ込むだけの十分な時間があるとは言えないでしょう。 特に富士山は登山道が渋滞するほどの多くの登山者が登っています。 タイミングよく山小屋に逃げ込む時間的余裕があるかどうかは運任せということでは、雷から身を守るのに十分な方法とは言えません。 また、 運良く山小屋の近くに居たとしても、そのようなときは他の登山者も山小屋に殺到することは容易に想像できます。 山小屋にその全ての人を収容できるだけのキャパシティはありませんから、入れない人は雷に対して無防備のまま外に立ち尽くすことになるでしょう。 運よく山小屋の中に避難できたとしてもそれだけでは安全とは言えません。 壁や柱、屋外に繋がった電話線やTVのアンテナ線などを電流が伝わって来るので、1m以上離れている必要があります。 ・車の中に留まる 金属製の車の中は最も安全です 屋根が布などで作られたオープンカーを除く。 5合目の駐車場などで雷に遭遇した場合には、あえて外に出ずに車の中に留まり、金属部分に触れないように、ハンドルからも手を離して雷の過ぎ去るのを待ちましょう。 山道を走行中は、安全な場所に車を停めて雷をやり過ごしましょう。 車を停められる場所が無ければ、落雷のショックで気を失ったり運転を誤る恐れがあるので、追突されないように気をつけながら徐行運転しましょう。 ・雷の発生する可能性のあるときには登らない もっとも現実的で効果的な唯一の方法です。 雷雲は局所的かつ短時間で発生するので、直前でなければ予測は出来ません。 ただし、雷の発生しやすい気象条件であるかどうかは今でもちゃんと予報されています。 これは主に、『 天気概況 てんきがいきょう:天気の今後の推移などを簡潔に文章で表したもの 』として、気象庁のサイトやTVの天気予報でも 「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」 という言葉で注意を促しています。 富士山に限らず山に登る際は特にこれらの言葉に注意してください。 特に、「雷注意報」が出ているときは絶対に登るべきではありません。 ・行動時間に気をつける 雷の発生しやすい時間帯というのもあります。 積乱雲を成長させる上昇気流は地面が熱せられることで発生するため、日差しの強い昼から午後に、積乱雲がより発達する傾向にあります。 これによる激しい雨が、所謂「夕立」です。 このため、 夏の登山では早朝から行動を開始し、午後は早いうちに山小屋に入るなり下山にかかれるような計画を立てることが常識とされています 但し、富士山では早めのチェックインを受けていない山小屋もあるので、事前の確認が必要です。 また、上空に寒気が流れ込んだ場合は時間に関係なく雷が発生するので注意が必要です。 落雷の前兆として風の温度の急な変化もあげられます。 上昇気流によって積乱雲が発達している間は比較的暖かい空気が昇ってきますが、落雷直前には下降気流が上昇気流を上回って強くなるので、上空の冷たい風が強く吹き降ろしてきます。 このように、急に冷たい風が吹き出したら天候の変化に注意が必要です。 また、霰 あられ や雹 ひょう が降ると激しい落雷に見舞われる可能性が非常に高いです。 このような前兆現象を見逃さずに捕らえることも、雷から身を守る上では大切なことです。 雷というと、日本では「落雷に遭って運が悪い」などと天災としての面が強調されますが、実際には正しい知識と判断、行動によって避けられるはずの人災であると言えます。 近年の富士登山ブームにより、登山知識、特に身を守る知識を持たずに観光気分で登る人が多くいます。 私が恐れるのは、いつか大きな事故が起こるのではないかということです。 事故が起これば後追いで何かしらの規制がされるようになるのでしょうが、起こってからでは遅いのです。 正しい知識があれば避けられる事故は、やはり未然に防ぐべきだと私は思います。 それでも雷に遭遇したら 正しく恐れることは、決して恥ずかしいことじゃない 落雷のメカニズムは未だに未解明の部分もあるようですが、近年の研究により一昔前の常識は大きく覆されています。 これから書くことは、生存の可能性をあげる方法でしかなく、身を守る方法ではありません。 屋外で雷から身を守ることは、事実上不可能です。 雷に遭遇してからどう対処すべきかを考えるよりも、雷に遭遇しないためにはどうするかを考えることが大切です。 これだけ書いても意に介しないで登ってしまう人はいるでしょう。 また、「登山をする以上はなんらかのリスクを伴うものだ」、「雷を恐れていては登山は出来ない」などという人も居るかもしれません。 実際にはリスク要素の多い登山だからこそ、少しでもリスクを減らして安全に登山できるように考えるべきなのです。 くどいようですが、繰り返します。 以下の知識を身につけたからといって、落雷の恐れのあるときでも安全に登れるなどと考えるのは本末転倒です。 くれぐれも判断を誤らないように、正しい知識を身につけて登山してください。 なぜなら、雷の可能性がある中を登山する行為自体に過失があるからです。 ・雷は突起物の先端に落ちる 雷は、一般的に高いものに落ちると認識されていますが、これは正確ではありません。 雷は、雷が地上に向けて伸ばした腕に最も近い突起物 先の尖ったもの や建物の角に落ちる可能性が最も高いのです。 また、雷が金属に落ちるという俗説も迷信です。 実際には金属を身に着けているかどうかに関わりなく、傘やストックの他、金剛杖や身体から上に飛び出たザックにも落ちるので、身を屈めるだけでなく、ザックは肩から外して腹側に抱えこむ方がいいでしょう。 Check Point! 雷がジグザグに落ちて来るわけ 稲妻は、発雷すると「ステップリーダ」と呼ばれる先駆放電が10万分の5秒という極めて短い時間に20~50mごとに停止しながら徐々に伸びていきます。 それに対応して、地面からは「ストリーマ」と呼ばれる迎えの放電が発生します。 ステップリーダが最後の20~200mでストリーマと結びつき、大量の電荷が流入する主雷撃となります。 この最後のステップで最も近くにある物体の先端に落雷し、この長さを雷撃距離と呼びます。 ・直撃しなくても命を落とすケース かつては、高い木の下に避難すると安全と言われていました。 しかし、雷に関する研究が進んだ今では 木の下に避難するのはむしろ危険であることが分かって来ました。 実際に、木の下で雨宿りをしていて落雷に遭い、死亡したケースが多数報告されています。 樹木に落ちた雷の電流は、木の表面を伝って地面に流れ拡散します。 人が木に触れていたり近くにいると、人体に電流が飛び移ってくることがあります。 これを『側撃雷 そくげきらい 』と言い、人を死に至らしめる威力を持っています。 一方で、高い木を避雷針として考えた場合、ある条件の範囲には雷が落ちる可能性が比較的小さく、側撃雷も受けにくい保護範囲があることが分かっています。 ・雨宿りは危険な場合もある 雷には豪雨が付き物ですから山小屋に入れないとなると軒先で雨宿りぐらいはしたいと考えるでしょう。 ですが、山小屋などの建物に落雷すると「表皮効果」により電流は主に壁の表面を流れますが、 木製の壁よりも人体の方が導電性が高いために外壁から雨宿りしている人へ電流が飛び移って来ることがあります。 建物の中に入れない場合は、むしろ建物から少し 3mほど 離れてしゃがんでいた方が安全な場合もあると覚えておいてください。 建物の高さが5m以上で保護範囲があるかどうかなど、ケースバイケースなので絶対ではありません ・建物の中でも、安全な場所と危険な場所がある 建物に落ちた雷は、壁の表面を伝って地面に流れます。 壁や柱に手をついたり、もたれかかっていると危険です。 壁や柱、屋外に繋がる有線電話、TVや無線機からは1m以上離れましょう。 また、 衝撃気圧波でガラスが割れて飛散することもあるので、窓ガラスや鏡の近くも避けられない場合は、被害が少なくなるように長袖の上着を着てガラス製の物に背を向けていましょう。 なお、テントの中も安全ではありません。 富士山周辺では限られた場所でしかテントは張れませんが、もし幕営中に落雷の危険を感じたら、速やかに安全な建物 山小屋 の中に避難しましょう。 ・高い木や鉄塔の下の保護範囲 富士山の5合目以上では、吉田ルートと須走ルート以外は森林限界を超えているために高い木はありません。 ですが、覚えておいて損はないので触れておきます。 保護範囲とは、雷がそこに居る人よりも高い木など別のものに落ちる可能性が高い場所のことです。 この保護範囲内で、 手を地面に着かず、目と耳を塞いで両足を揃えてしゃがみこむことが、落雷の被害に遭う可能性を少しでも減らすことになります 足が開いていると歩幅電圧と言って、左右の足の電位差によって被害を受けることがあり、体育座りも同様の危険があります。 この際は、ザックを背負ったままだと背中から上に飛び出してしまうので、降ろしておいた方がいいでしょう。 この膨張により周囲に衝撃気圧波が広がるので、耳を塞いで鼓膜が破れるなどの傷害に備える必要があります。 このような、 高い物による保護範囲のない場所では、尾根や岩の上など斜面から出っ張ったところは避け、窪地など出来るだけ低い場所でしゃがみこむようにしましょう。 しかし、山の雷は上からだけとは限りません。 雷雲の中に入ってしまえば、真横から雷撃を受けることもあり、保護範囲などというものは意味を持ちません。 こうなると、「運が悪ければ落雷」ではなく、「運が良くないと助からない」状況です。 ですから、「山の雷」は恐ろしいのです。 ・屋外では間隔を空ける 多人数で登っている場合、屋外で保護範囲に避難しているときなどお互いに出来るだけ離れることが重要です。 まとまっていると、一人が直撃を受けたときに同時に複数が被害を受ける可能性があります。 パーティーの全員が倒れてしまっては、誰も救命活動や救急連絡が出来ません。 保護範囲から外れない前提で、少なくとも5m以上離れた方が良いでしょう ・ラジオで雷の発生を知ることが出来る? アナログAMラジオでは、雷によってノイズが入るために雷の発生を知ることが出来るとされてきました。 しかし、最近のラジオは雷などによるノイズが入りにくいように対策が施されているので完全ではありません。 また、 すでにノイズが聞こえているような状況では避難するには手遅れということも有り得るので過信は禁物です。 雷探知機などでも同様です。 なお、デジタルラジオやFMラジオではノイズが入りにくいため、雷を有効に探知出来ないとされています。 ・登山中に傘を使うことの是非 まれに、登山に便利な道具として折り畳み傘をあげているサイトを見かけます。 登山口へのアクセス アプローチ までなら危険性は少ないと思われますが、登山中に使うには落雷の恐れが全くないとは言えません。 安全な状況で使うのならいいのではないかという意見もありますが、そもそも傘を使うのは雨の降っているときであり、落雷の可能性をどれだけの人が正しく判断出来るでしょう。 安全な状況が誰でも的確に判断できると言うのであれば、登山はもとより、ゴルフやサーフィンの最中に落雷で亡くなる人はいないはずです。 個人的に自分の責任で使っているというのならまだしも、安易に人に勧めるべきではないと私は思います。 ・富士登山中に、晴れているのに雷が聞こえる 富士山の特に静岡県側を登っていると、空は快晴なのに「ドドーン」と落雷のような音が響き渡ることがあります。 これは、雷ではなく、富士山の麓にある自衛隊が演習で砲撃している音のようです。 よくある迷信 Q. 金属を身につけていると危ない? A. 昔は広く信じられていた迷信です。 現実的には、1億ボルトにも達する雷の大電圧の前では、金属と人体の導電性の違いなど、大した意味を持ちません。 これは、絶縁性の高いはずの樹木に落雷することからも分かります。 ゴム長靴やビニールの雨合羽が何の備えにもならないのも同じ理由です。 そもそも、空気自体が電気を通さない絶縁体なのですが、その絶縁さえ破壊するほどの大電圧を発するのが雷なのです。 一方で、人に落雷した場合に金属を身に着けていると、落雷の電流が金属へと流れることで人体内に流れる電流が減り、金属との接触部分の皮膚がヤケドはするものの死亡を免れるというケースが報告されています。 稲光から雷鳴が聞こえるまでの間隔が開いて来たら、雷は遠ざかっている? A. 雷鳴の聞こえる距離は10~14km程度とされていますが、その距離はすでに雷雲から雷が及ぶ範囲に入っています。 姿勢を低くして、一刻も早く建物の中に避難しましょう。 しかし、雷鳴が聞こえていなくても安全というわけではありません。 落雷の最初の一撃があなたに落ちるかも知れないからです。 雷鳴のあるなしに係わらず、雷雲が発生していたら落雷の危険性があることを認識してください。 また、 雨が降っていなくても雷は発生します。 雷に激しい雨は付き物ですが、雨に先駆けて落雷するケースも決して珍しいものではありません。 実際に雨が激しく振り出してから避難するのでは、完全に逃げ遅れになっていると言えます。 同じように、雨がやんだり雷鳴が聞こえなくなったからといって安全ではありません。 雷は雷雲が完全に消滅するまで続くので、雷鳴が聞こえなくなってから少なくとも20分は安全な場所に留まる必要があります。 つまり、 雷光と雷鳴の間隔を測って、「近づいて来た」、「遠ざかっている」などと判断することは無意味です。 それは単に落雷した場所の遠近が分かるだけであり、遠くで落雷したからといって次にあなたの上で発雷しないという保証は全くありません。 全ては、雷雲の落雷範囲に入っているかどうかだけなのです。 雷様はおヘソがお好き? A. 雷が鳴ったときにおヘソを出していると、雷様におヘソを取られてしまうことがよく知られています。 ですので、当サイトでは登山中のヘソ出しファッションは禁止と指導しています。 おヘソを取られたくなかったら、身体を丸めて低くしゃがむのが良いでしょう。 なお、雷避けに「クワバラクワバラ」という呪文を繰り返し唱えるといいとされています。 似てはいますが、「クワバタオハラ」と唱えても効果はありません。 雷様は太鼓を叩いている? A. 太鼓は叩いていません。 ウクレレを弾いています。

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雨やどり (さだまさしの曲)

もうひとつの雨宿り 意味

神戸シュタイナーハウスの大人クラスの例会において、このかん読み解いてきたシュタイナーの著書「自由の哲学」も、いよいよ次回で最後。 夫々が夫々なりにこの難解かつ厄介な著書と取っ組み合いをしつつ、結局はもっとも難解で厄介な自分自身との新たな出会いを果たしてきたのではないかとおもう。 そうして行き着いた先は、夫々が存在することの自由だった。 それは換言すれば、存在することそのものに価値を見出そうとする最も愚かな行為から、自身の存在を解き放つこととも言える。 人は人であるが故に自然を生みの親としつつ、社会を育ての親として生きる。 自然界にあって動物の世界で最も弱い存在であった人が、こうして今も生きながらえることができているのは、その弱さを社会を作ることを通して補完し、自然界にあって優位性を保とうと努力してきたからに他ならない。 が、その優位性を保持し続けようとする時、人はそれぞれ2通りの身構え方をする。 ひとつは「何故」という身構え。 もうひとつは「如何に」という身構え方だ。 人が「何故」という身構えをするとき、そこに価値が生じる。 人は夫々において自ら行為することの意味を問い、その意味において価値を常に見出そうとする。 こうして無意味な行為は価値のないものとして退けられ、有意味な行為が価値を生み出すと信じられている。 そしてもう一方で「如何に」と身構えたとき、そこには技術が生まれる。 だが、こうした人の身構え方は人が自然をその手中に収めたい、或いは自然を征服したいとする飽くなき衝動の上に成立したものだ。 こうして人は生きることの価値を見出すと共に、様々な生きていくための技術を生み出してきたといえる。 だが、悲しいことに人はこうした自然への身構え方を、自らの存在に対してもさえいつの頃からか、同じようにアナロジーして身構えるようになってしまった。 「何故存在するのか」という問いがその最たるものと言っていい。 その結果存在のしかたをも価値判断するという誤謬に行き着き、価値あるものと価値無いものといった存在自体の選別が行われるようになってしまったのではないだろうか。 「わたしは生きる価値のない人間だ」と人がおもうとき、或いはそうおもわされるとき、生きるに値しない存在という価値観が潜んでいる。 存在することの自由とは、存在することに何らかの価値を見出すことからも自由であることであるはずだ。 そのようなことをかんがえていたら、ふと、中世の優れた神学者であり、ドイツ神秘主義エックハルトのことを思い起こしていた。 エックハルトの著作類は時の教皇の逆鱗にふれて悉く発禁処分となり、隠しもっている者は死刑に処されるという厳しいものだったが、その後のドイツ観念論やニーチェなどに与えた影響は少なくはないようにおもうのは小生だけだろうか。 で、エックハルトはその説教集の中で「何故生きるのか」と人が問うのは意味がないことと言う。 そこには必ず自分にとってそれは得か損かという囚われから常に迷いが生じ、その結果独善に陥り、他者と対等に交わることはありえないということを言っているのだが、この説教ひとつをとってみても、今の時代においても十二分に通用する。 小生がもっともエックハルトの説教で気に入っているのは、「わたしが存在しなければ、神は存在しない」というところ。 ほかにもわくわくする説教がたくさんあり、シュタイナーとまた違った意味でわくわくさせられる。 もうはるか昔に読んだ本だが引越しの際に紛失してしまったのが残念でならない。 もう一度読み返してみたい衝動に駆られている。 興味のある方は「エックハルト説教集」(岩波文庫)がお奨め。

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